今日は、まずCMを見てもらう。まず、60秒のものを2本だ。
【サントリーの企業広告を視聴。「上を向いて歩こう」と「見上げてご覧夜の星を」アクセスしたホームページはこちら】
これは、かなり話題にもなったし、オンエアもあったようだから見た人も多いだろう。震災後に、震災を意識して制作したCMとしては最も注目されたクリエイティブだし、仮に震災と関係なく視聴したとしても、大変優れたものだと思う。
さて、震災後に作られたCMをもう1つ見てみよう。
【トヨタの企業広告を視聴。「トヨタからのお知らせ」より「地震発生時の運転」「エコドライブのお願い」「停電時の運転」などを視聴。アクセスしたホームページはこちら】
トヨタのCMもまた震災後に作られたものだ。これはサントリーのものに比べると、話題性は少ないかもしれない。ただし、震災後の余震、停電、あるいは燃料不足という事態に対して的確な情報提供を試みている。
今日は、まず「メディアとは何だろう?」ということを考えたい。その際に、この2社のCMはとてもいいヒントになる。2社とも震災の後に、メディアのことを考えていたということがわかる。
メディアというのは、訳せば「媒体」ということなんだろうけれど、まずは「間」であると覚えておいてほしい。辞書を見ればmediumの複数形だということがわかる。
「何か」と「何か」の間である。だから、その「何か」が二つ以上なければメディアは成立しない。
マーケティングにおいて、その「何か」は企業であり、消費者という構図が基本だ。もちろん、消費者同士にも「間」はあり、メディアはあるんだけれど、それについては追って話をしよう。
自分のブログで政治批評をやるつもりはないのだけれども、今の首相を「人事部が査定したらどうなるか」というのは興味深い話ではある。
そう思ったのは首相が「話した」と報道され、その後撤回した「10年、20年住めない」という発言の件である。実は似たような話が震災後に多い。時系列でいうと。
その1.地震直後の3月16日に内閣特別顧問の笹森清氏に「ぼくはものすごく原子力に強いんだ」などと話したことを、笹森氏が記者団に話して記事に。
その2.4月11日に公明党の斉藤幹事長代行に「細野豪志氏を原発担当大臣に」と電話で話して、報道されてその後霧消。斉藤氏は首相の大学の後輩。
その3.昨日松本健一内閣参与に「避難区域は当面住めないだろう。10年なのか20年なのか」と話したことを松本氏が記者団に話して記事に。その後両名とも否定するも大騒ぎ。
共通点があって、「大事だけど迂闊に口にしてはならないこと」を「部外者」に話して、そこから漏れるというパターンである。
簡単にいうと、このようなリーダーは査定するとかなり低いポイントになる。というか、ダメなのではないか。もし、こんなリーダーが職場にいたら?と考えればすぐわかる。
① 公式な部下よりも同期や同窓あるいは社外の人に大切なことをいう
② しかもそういう話を聞いた人の口が軽く、部下の耳にも入ってくる
③ 「口の軽い人」を見抜けず、言われた人も「軽い言葉」だと思うのでまたしゃべる
真っ当な会社なら「管理職降格」になることは間違いないだろう。
「どのくらい暮らせないか」というシミュレーションはたしかに必要だと思うし、今でも専門的な検討はされているだろうし、するべきだろう。でも、それをトップが「ポロリ」ということか。
経営者が社外の人に「もうウチの会社はダメだ」と言って、それが漏れたら社員はどう思うだろうか。
というような話なのである。
書いてて哀しくなってきたが、官邸の方が原発よりもっと恐ろしいということなのだ。
まず、講義に先立って一言。
先の震災で皆さんも大変苦労されたと思うし、関係者の方の中にも被災された方がいると思います。改めてお見舞い申し上げます。
また、こうした環境にもかかわらず予定通りに講義がスタートできたことに感謝したいと思います。
とはいえ、現在においてもまた平時とは言い難いことはたしかです。皆さんの先輩は、卒業式ができませんでした。そして、皆さんの後輩は入学式ができなかった。今回の震災の影響がきわめて多方面に及んだ例のないものだということが感じられると思います。
間違いない、戦後最大の「災い」であり、それは天災でもあり、また人災でもある。本日、福島原発の事故が「レベル7」であると発表されたが、これは一部の人々の責任に帰して住む問題ではないということです。
すべての日本人が、いま生活と社会のあり方、そして自然との向き合い方について考え直してる。
こういう中で、昨年と同じ講義ノートを読むだけであれば、ハッキリ言って大学の講義と言えないと思います。したがって、今年の講義は「いま考えなくてはならないこと」をやります。
その上で、3つのことを覚えておいてください。
1つ目は、まず今までのマーケティングのセオリーやスキルはそのままでは通用しないということです。
震災直後の「自粛ムード×停電」という状況が少し落ち着いた頃から「○○の役割」というのが目につくようになった。
周囲でもメディアでも結構目にしたのは「音楽の役割」「スポーツの役割」などのフレーズだろうか。つまり、アートやエンタテインメント、スポーツなどついつい「不要不急」とされてしまいがちな業界の人々が自問を始めたようなのだ。
その結果、チャリティーイベントなども多く行われるようになって、それはいいことだと思っている。
ただ、この「役割」ってあまり考えすぎても仕方がないように思うのだ。
「こういう時だからこそ、音楽は人々を勇気づける役割がある」というのも、正直僕は疑っている。あの混乱の中で、音楽を聞く気にはなかなかならない。やはり音楽は、楽な気持で聞きたい。
美しい歌声が人々を癒したり、スーパープレーが勇気を与えるということはたしかにあるだろう。ただ、残念なことに被災の現実は何も解決しない。
「自分にとって何ができるか」と考えることも大切だけれど、「自分がいかに無力なのか」を自省することもまた大切なのではないか。そう思ったのは4月1日に青山学院で行われた、「東北関東大震災の被災地を覚えての祈祷会」に参列したときだった。
「自らの無力と向き合い祈る」ということこそ、実は自分にとって糧となるのではないか。そんなことを痛感した。「何ができるか」と考えてもがくよりも、「何もできない」ことから見つめ直すことに、意味があるのではないか。
だから、祈る。
今の日本人の殆どは「祈る」ことが生活の中に組み込まれていない。地震の惨状をメディアで知っても、教会や寺院に行こうとした人は少なかっただろう。「神に祈る」機会や方法がわからないままに、自責の念ばかり強まってしまうことは決して幸福ではない。
あの地震が「人知を超えた」ものだったのであれば、「祈り」こそがまた人々にとって必要なのではないかと、改めて思う。