明日から、多くの若い人たちが社会に出ていく。
自分が大学で教えたり、就職の世話をした者からは、あいさつのメールも来た。
卒業式もなく、また入社式すらなくなったという人もいるかもしれない。「運が悪い」と思った人もいるだろう。
単なる自粛ムードだけではない。エネルギー供給が不慮の事態となり、それはまた一時的なものではないことがわかっている。いま、日本は本当に重苦しい。「なぜこんな時に社会人に」と感じることもあるはずだ。でも、人間は自分の生きる時代を選ぶことはできない。
2011年の春に社会に出ていくことには、きっと大きくて重い意味がある。その意味は、まだ誰にもわからない。しかし、「どんな意味があるのか」を決めるのは、新人一人ひとりだ。
明日社会に出る人々は、同期の仲間たちと、たくさんたくさん話をしてほしい。将来の不安を分かち合ってもいいし、夢を語ってもいい。大人たちのダメなところを罵ってもいい。
今年の新人は、かつてないほど色々なことを考えて、語り合うだろう。その語り合いの中から、きっとエネルギーが生まれてくると信じている。
2001年の春、社会に出た。それは、将来みんなの誇りになることだろう。
健闘を心から祈っている。
ネットを見ていて「仁科亜希子」とか「こだまでしょうか」あるいは「ぽぽぽぽ~ん」という言葉のやり取りの意味がわからなかった。昨日になって、久々に民放を見たので「AC」のネタだということがようやくわかった。
なんだ、みんなテレビ見てたんだと思ったりもする。
新聞・テレビが系列化されている日本で、「マスコミ叩き」というのは雑誌のお家芸であった。最近では、ネット上で盛んになっていて、マスコミOBの中にはそれを生業のようにしている人もいる。
たしかにAERAの表紙とかコンビニで見たときは「ダメだろこういうの」と思ったけれど逆風は想像以上だったようだ。
今回の震災報道は、まあいろいろ突っ込まれても仕方ないところは多いけれど、興味深いのは「アンチ・マスコミ」の人々のネット上の論調である。
古い話で恐縮だが「アンチ巨人」というのを思い出してしまった。今は死語になってしまったが、「とにかく巨人の嫌いな野球好き」という人々で、20世紀にはそれなりに存在した。彼らの多くは「アンチ自民」でもあったので、そういう人と迂闊に飲んだりすると午後10時を過ぎるころから説教臭くなって、大変に困ったものである。
もちろん冷静な意見も多いとはいえ、「自粛」のムードが広がっている。単に「不謹慎」という精神論だけではなく、今回は「電力節減」という物理的な大義名分ができつつあるのでややこしい。
しかし、この節電という名分も怪しいものがある。東京ドームのナイターは6000世帯分の1日分の電力だという。「その程度で済むのか」と思った。
そもそも5万人くらい来るのだから、おそらく万単位の世帯が不在になる時間ができる。一箇所に人が集まる方が効率はいいのではないか?
そう、結局節電も精神論になりつつある。合理的に考えないで象徴的なイベントにしわ寄せがいく。プロ野球も両リーグにコミッショナー、そして選手会がそれなりに考えていたのに、文部科学省や政治家が入ってきてややこしくなった。
とにかく「エンタメ狩り」を止めた方がいい。日本、特に首都圏はサービス業の割合が高いし、エンタテインメント産業にかかわる人も多い。多額の義捐金を寄付できる有名なスポーツ選手やアーチストはごく一部だ。災害時に「不謹慎」で止められてしまうような仕事にかかわる人の裾野はかなり広い。外食だってそうだし、流通も同じだ。
実は「不要不急」の行動が、多くの人の仕事になっているのだ。
「人を楽しませる仕事」を支える無数の人々の仕事を奪ってしまうことは、本末転倒だ。日本では、そうしたエンタテインメントの仕事にかかわる人が増えた。それは日本がずっと平和だったからだ。
こんなことが続いたら、「喜怒哀楽」ではなく、「怒哀」だけの社会になる。それがいかに恐ろしいかは、誰だってわかるはずである。
■将来の電力供給も含めてリポート「震災後の生活と新たな機会」を書いた。こちらからお読みいただけます。
今回の震災は「複合大震災」という感じになっている。現時点では「被災地救援」「原発保全」「停電対応」の3つが同時に動いている。どれか一つだけでも大ごとなのだから、これが3つ起きているというのは、戦争以外では空前の事態だと思う。
原発は予断を許さないが一定の収束があれば、という前提で考えると今後は「被災地復興」「原発処理」ということになって課題の局面は変わるのだが、実は「停電対応」というのが、もっとも長期化する可能性があり、かつ前例もなく生活や経済へのインパクトも大きいのではないだろうか。
現在の報道は明日、どころか「今日の停電」を伝えるくらい「目の前のこと」で精一杯で、それもまた仕方ない面もあるのだが、たとえば今夏にもまた停電になる可能性は十分に高い。そのあたりの状況をちょっと見ておこう。
まず、図表は電気事業連合会等のHPから抽出したデータを基に作った。これは東京電力管内の「最大電力」の変化である。電力は蓄積できない。したがって、このピーク時の電力を確保することが重要になる。それが刻々と変化するので昨日のように「今日は寒いからやばい」みたいなことになる。
寒いのは朝からわかっていたはずなのだが、停電慣れしていない東電も日本人も対応が後手に回ってしまう。
この最大電力は夏に発生する。かつては冬がピークだったのだがエアコンの普及で1970年頃に「夏ピーク」がその年の最大電力になった。したがってグラフの数値はすべて夏季に記録したものである。
「電力が足りない」と聞いたことは多いだろうし「節電のお願い」もたしかによく聞く。ところが一方で「オール電化」というキャンペーンもあって、電力会社の姿勢はたしかに矛盾しているように思えるだろう。しかし、電力会社はそもそも矛盾を抱えている存在なのだ。
たしかに、スーパーに行くとモノがない。買いだめしている人が多いという。
でも、少なくても自宅近くの複数のスーパーを見れば「普通にメシを作る」ことは問題ない。米やミネラルウォーター、さらにパスタやレトルト、カップ麺などの「非常食」は消えたけれども、慌てる必要はないだろう。肉や魚、野菜などは十分にある。
水も500ccはコンビニでもあるし、実は自販機のミネラルウォータはどこも売り切れていない。米は回復した。牛乳や乳製品などは一時的に品薄だが、これは北関東からの物流の影響だろう。
ガソリンも、別にオイルショックじゃないんだから。
そもそも、ついこの間まで日本の悩みは「需要不足の供給過剰」だったのだ。何も焦ることはない。
と、アタマではわかるのだけれども、やはり不安だろうなと思う。高齢者の人が一人で来ては買い込んでいる姿を目にする。彼らを批判するのは簡単だろうが、少し想像すれば、同情的にもなる。
あれだけの揺れがあって、テレビでは大騒ぎ。店に行けば品薄。もちろん放射能が「○倍」と言えば、それだけでビビるだろう。
こういう時に「生のコミュニケーション」がないのはきつい。実際、商店街で買い物をすると安心する。市場の様子などを教えてもらえるから、「ああ、大丈夫だな」という気になるのだ。ひとり暮らしの高齢者がテレビをずっと見ていて、いきなりスーパーに行ったら、そりゃ焦るのではないだろうか。
生のコミュニケーション、と言っても同じような人だけと話していると、やはり不安は増幅する。妹の話を聞いても、子どもを持つ主婦どうしは、どうも不安が掛け算になっている。彼女の夫は米国人なのだが、どうやら日米をまたいで彼らのソサエティで飛び交っている情報も、原発がらみについてはかなり暴走しているようだ。ちょっと面白過ぎて書かないけれど。
一方で自分も出入りしている高校時代のオーケストラOBのSNSは、その手の専門家もいれば、現地で被災しつつ奮闘している医師もいて、僕にとっても安心できる空間になっている。
被災地も孤立してしまう一方で、都市の中にも、高齢者を中心に孤立している人がいる。それも、また社会の課題なのだ。「買占めをやめよう」というメッセージも、表現によっては不安を増幅するかもしれない。
心が安定している人が、行動や言動においても安定していることが、世の中全体の安定になるはずなのだ。
普通に暮らそう。もちろん、それが困難なことは承知しているが。