「伊達直人」という消費行動。
(2011年1月13日)

カテゴリ:マーケティング
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伊達直人が、いきなり注目である。日本を代表するはずの「直人」があまり評判がよろしくない中で、まあ「直人一族」としては悪い話ではない。
もっとも、単純に「善意が素晴らしい」という賛美する空気ばかりでもないだろう。何となくピント外れの類似行動もあるようだし、そもそも現金の寄付の方がいいのではないか?とかいろいろ議論はある。(現金寄付も出てきたようだが)
ただ、地震被災地に「使えない衣類」を送りつけるような、勘違いの善意に展開してしまわないことを願いたい、と思いつつ、僕がこのニュースで感じたことは全く異なる。
「伊達直人という名前で、寄贈する」これって、ある種の消費欲求なんだろうな、ということだ。そして、人は「動機づけ」があれば行動するということである。
善意を消費行動で片付けるな、と言われるかもしれないけれど、じゃあ「伊達直人」という送り主の名前をつけるだけで、どうしていきなり「善行」が広がるんだろうか?


この送り主は、たしかにもともと「何か役に立ちたい」という思いはあったのだろう。ただし、どうしようかという動機づけがない。なにがしかのお金があっても、どこへ持っていけばいいのかわからない。そこに「伊達直人」である。それなら、お金を使ってもいいということなのだろう。
かつて、「物語消費」というワードがあった。「シンデレラになれる」と言われれば、ディズニーランドに行きたくなる。クリスマスエクスプレスも、ビックリマンも同じ構造だ。80年代の「昔のマーケティング」で片付けられやすいけれど、「ストーリーと動機」というのは、いまでも大切なはずだ。
一番の違いは、広告などのマス・マーケティングでストーリーや動機を作ることが困難になっているということだろう。
社会性、というのはたしかにマーケティング上のキーワードだ。「売り上げの一部を寄付」というのは、結構多い。しかし、劇的には広がらない。
そう、これでは「伊達直人」になれないのだ。個人の善意を、マス・マーケティング的に考えるとロクなことにならない。「自分に何かできるのか?」と考える機会を多くの人々に与えただけで、このニュースはそれなりの意味があったと思っている。
そういう意味では、最初に寄贈した人はすごい。あとは、これに乗じて中途半端な「ソーシャルマーケティング」を提案する動きが出てこないことを祈るだけ。