ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団演奏会
指揮:アンドリス・ネルソンス
トロンボーン:ディートマル・キューブルベック
11月1日 19時 サントリーホール
モーツアルト:交響曲第33番 変ロ長調 K.319
アンリ・トマジ:トロンボーン協奏曲
ドヴォルザーク:交響曲第9番 ホ短調 B178「新世界より」
アンコールについてはこちらを参照。
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新世界というのは難儀な曲であり、ウィーン・フィルとは厄介なオーケストラだと思った。
新世界をプロの生演奏で聴いて、素直に感動した経験がない。「聴かせる」という点では、かなり難儀な曲なのだと思う。ベートーヴェンが第5交響曲で編み出した「苦悩から勝利へ」というストーリーでもなく、かといってサラリと流せるわけでもない。
むしろ印象的なのはアマチュア・オーケストラの自己陶酔的な演奏が妙な感動を呼ぶことがあるくらいだ。
この日の演奏も、この曲の難儀な雰囲気がよく現れていた。随所に、というか最初から最後までウィーン・フィルらしい響きは堪能できるのだけれど、音楽に没入しきれず、どこか冷めたままエンディングを迎えてしまった感じもある、
それは、また指揮者と楽団の関係も影響しているのかもしれない。
ネルソンスは、ヤンソンスの弟子でありラトヴィアの名門「ソンス一族」という出自である。というくだらない嘘を書きたくなるほど、指揮姿はヤンソンスを髣髴とさせる。やや高めの打点、熱のこもったときの上半身の激しい揺さぶり。
ただし、その熱がオーケストラとコミュニケーションできているかというと、やや疑問が残る。彼の打点は明確のようでいて、肝心のところが「スルスル~」と抜けたようになる。結果として管楽器のアインザッツが乱れたりする。
終楽章のホルン・ソロで高いEがよれたのも、棒と無関係とはいえないように思う。つまり呼吸があっていないのだ。
そして、こうした若手の指揮者に対するウィーンフィルの振る舞いというのが、これまた厄介なのである。
最初のモーツアルトは、ウィーンフィルの美しい響きを十分に楽しめた。2005年にムーティが来日した時の「ハフナー」よりも、和声がクッキリしているように思う。
しかし、この演奏の間、コンサートマスターのライナー・キュッヒルは殆どろくに指揮者を見ていない。そして、アクションも殆どなく、淡々と「いつもの仕事」をしているだけ。ネルソンスは、モーツアルトとしてはややオーバーアクションで指示を出すのだけれど、キュッヒルは見ていない。
無視ではない。見なくても「これでいいんでしょう」ということなのだ。目をつむって聴いているといいのだけれど、目を開けてしまうとキュッヒルを初めとする、ウィーンフィルのシカトぶりが気になって仕方ない。
キュッヒルってこんな弾き方だっけ?と思ったんだけれど「新世界より」では、要所要所で指揮者を見ていたし、アクションをつけてオケを引っ張る姿も見られた。
いや、本当に難儀なオーケストラである。
素晴らしいなと思ったのは、「新世界より」の2楽章の終幕で、弦楽器が二人づつになり、やがてトップだけとなり、再びトゥッティになっていく時の美しさ。あれは、ウィーン・フィルでなくては聴けない響きだった。
考えてみれば、ヤンソンスとアムステルダム・コンセルトヘボウの2006年の来日公演でも「新世界より」は聴いている。そして、今月は21日に同じコンビでマーラーの3番を聴く予定だ。そうだ、今月は僕にとって「ソンス月間」だったのだった。