意外性と悪趣味の境界線~上岡敏之というシェフ。
(2010年10月20日)

カテゴリ:見聞きした
タグ:

ヴッパータール交響楽団演奏会 
指揮:上岡敏之 
10月18日 19時 サントリーホール
モーツアルト 交響曲第28番 ハ長調 K.200
マーラー   交響曲第5番 嬰ハ短調
==================================================================
いろいろと評判の指揮者だったのだが、たまたま聞く機会に恵まれた。
最初のモーツアルトでまず棒さばきに目が行った。細かく拍を刻まずに、オーケストラと歌うようなスタート。時折、弦楽器のハーモニーが、思わぬ厚みを見せる。また木管やホルンの響きも、劇的でかつ美しい。ここまで聞いた印象では「自然な音楽をつくる指揮者」というイメージで、後半が楽しみになる。
ところがマーラーは全く想像しなかった音楽だった。
表面的な面でいうと、テンポの緩急が意外なところで動く。また、低弦や内声の強調、ピッツカートなどのアクセントなどが大きなアクションとともにいやでも目立つ。
そして、マーラーの混沌とした思念をぶつけているかというと、フィナーレを聞き終わった時には、比較的爽快な印象が残る。コンサートとしてはとてもいい体験だったのだけれど、後から思い出すと「どうしてああしたいのか」が何だかスッキリしない面もある。
とはいえ、彼の指揮をまた聞きたいか?というと「聞きたい」と迷わず答える。つまり気になるのである。
指揮者をシェフにたとえるのであれば、彼はあえて肉の内臓まで使った料理が得意なタイプなのだろう。

動物を解体するようにマーラーのスコアを解剖して「こんな音もある」と突きつける。凝ったソースを合わせるように、「こんなハーモニーも」と教えてくれる。料理でも音楽でも、意外性と悪趣味は紙一重である。ただし、そのギリギリの挑戦をしていることにはたしかに惹かれる。
翌日になって、久々にマーラーのスコアを本棚から引っ張り出していろいろと見直してみた。そういう気分になることも、また少ない。
で、まったく話は違うんだけど、コンサートというのはいつまでこうやって続くのだろうか。
最近になって、インターネットと情報史に関する本を読んでいたこともあったのだが、人間の情報処理行動がここまで変わると、当然アートに対する感覚も変わるだろう。情報がビット化して編集権が消費者に移行して、音楽産業はおそろしく変わった。少なくても、ポピュラーの世界ではアルバムからダウンロードになった。
もちろん遅ればせながらクラシックもそうした流れになっているけれど、何といっても元の楽曲が細切れを拒絶している面がある。オンラインのラジオは重宝だけれど、僕はまだCDを買っている。もっともスピーカーでしか音楽を聴かないし。
マーラーの5番というと、1986年、自分が社会人になった時のショルティとシカゴ交響楽団の日本公演が印象的なのだけれど、四半世紀経ってやっている行為は全く変わらない。紙のチケットを持って、少しドキドキしながら開演を待つ。そして、トランペットのソロを待って……。
自分にとっては好きな時間なのだけれど、着々と少数派になっているような気がしてならない。東京の、この四半世紀はクラシック音楽を聞くという意味では「いい時代だった」と回顧されるのかもしれない。