団菊爺の嘆息。
(2010年4月26日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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「団菊爺」という言葉がある。「いや先代の団十郎や菊五郎は素晴らしかった」と、歌舞伎の昔語りをして「それに比べりゃ、今の連中は……」と嘆く爺のことである。明治あたりのことばらしいが、たしかにこういうのはどの世界にもいる。
落語で言えば「志ん生や文楽」で、クラシックなら「フルトヴェングラーやトスカニーニ」という感じだろうか。スポーツでもありそうだ。
こういうのって若い世代から見れば「また始まった」みたいなもので、適当にあしらわれつつ、老いていくのみ。せっかくだったら、いま眼の前で繰り広げられいている世界を楽しめばいいのに、と僕なんかは思う。
で、そういうファンの繰り言であればいいんだけど、結構ビジネス界にも「団菊爺」はいるものだ。そして、それは結構困ったことだったりする。
「いや、本当にあの人はサムライだった」
「やっぱクリエイターとしての生き方が違う」
とかいって、よく聞いてみると単に羽目を外した飲んだくれ営業だったり、女性関係にルーズで離婚を繰り返したデザイナーだったりする。単にセクハラ・パワハラ全開の、いわゆる「セパ両リーグ」を渡り歩いた困った人なのに。


こういう「職場の団菊爺」が出てくるのは、その会社や業界が結構問題抱えてる反映なんじゃないかという気がする。「いま現在」をどう乗り切るか、という基準を持っていないから過去を反芻する。
でも、そこに答えはない。上司がこんな戯言ばかりの職場だと、若いやつの士気も下がる。というか、これって中高年の専売特許とは限らない。30歳になろうかという人でも「オレが新人の頃は」と嘆息したりする。
考えてみると、それは職場だけの話でもないだろう。いまのメディアって「過去の情報」に溢れている。新聞もテレビも回顧が多い。ドキュメントから歌までみんな後ろを向いている。考えてみればクイズ番組だって、そうだ。漢字の読み方だって、地理の問題だってすべては「過去の知識」だ。
コンテンツが蓄積されて高齢化が進む。昔は美しく見えるばかり。
そうか、日本中に団菊爺は溢れているのかもしれない。今の世の中は、大量のため息に包まれているんだろう。それが社会の空気というものか。
そんなため息には、参加したくない。ただ、このため息を減らすのに何ができるんだろう。それは自分の課題でもある。