「これからも応援よろしくお願いします、とは絶対に言わない。」
イチローが昨日の記者会見で、そんなことを言った。そして「応援していただけるような選手であるために、やらなければならないことを続けていくと約束する」続けたらしい。
イチローの発言自体は、全体に肩に力が入ったところもあり、この言葉も受け止め方は様々だと思う。ただ僕も「応援よろしくお願いします」には違和感を感じていて、あらためてその感覚を考える機会にはなった。
そもそも、選手と観客の関係を考えると、応援というのは「期待」を形にしたものだ。そして、選手は期待に応えることで、関係が持続する。で、期待に対しては、選手から観客へは勝利や美技と言った喜びが「贈与」される。また、この喜びは、何人で分け合っても分け前が減るものではない。だからこそ、スポーツは多くのファンを魅了してきた。
ところがいつ頃からか、選手はファンに応援を「依願」することになった。そうなると、今度は観客から選手に応援が「贈与」されるという関係になっている。
なんでだろうな~と思った時に、ふと気づいたのは「感動をありがとう」という言い回しだ。
オリンピックなどでメダルをとった選手に対して「おめでとう」ではなく、「ありがとう」になった。僕はここにも違和感があって、この変化について分析した論考もいろいろあったが、なんだか当たり前になってしまった。
オリンピックでなくても、人気選手の引退では「ありがとう」という流れになっている。
これは、選手からの贈与に対して「感謝」を言葉にしたから、ということではないだろうか。そして感謝された選手は、またファンにも感謝するようになった。
それ自体は、わるいことではないだろう。贈与と感謝はセットになり、やがて選手と観客は相互に感謝する関係になった。というか、そういう関係であることが規定されてしまった。
お互いに感謝しあう関係。これは、人間関係においてはとてもいい。長続きする人間関係には、この感謝という気持ちが欠かせない。
ただし、それはスポーツという世界においてどうなんだろうか。期待に応えられなかったら、バカヤローと罵られるような緊張感も、またスポーツの一面だ。スポーツは「戦う」ということであり、それはもともと道徳的なものではない。そして、道徳などに任せたら収拾がつかないので、ルールを決めている。
「お互いに感謝しましょう」というきわめて道徳的に正しいお話が、スポーツの世界にしっかりと入り込んでいる。それが、一連の言葉の違和感の正体じゃないだろうか。
「感動をありがとう」
「どういたしまして。今後とも応援をよろしくお願いします」
うん、やっぱりどこかが違うと思うのだ。