世の中を変えたい、と言うのなら。
(2014年11月28日)

カテゴリ:世の中いろいろ

「世の中を変える」という人は多いが、「変えたくない」という人は多くない。

というのは、あくまでもメディアの景色のお話なので、現状に満足している人が多いとしても、彼らは「このままにしよう」とは大声では言わない。

一方で、若くして「世の中を変えたい」と行動すれば、それは注目されることも多いわけだが、そうした人の得意技が「子供に成りすますこと」だったりするというのも、まあ驚くといえば驚くが、その知恵も小学生水準だとすれば、別にどうでもいい感じになってくる。

この手の騒動を見ていつも思うのは、宗教改革の話だ。唐突かもしれないけれど、結構シンプルに深い。

ルターの宗教改革記念日は10月31日。考えてみればハロウィーンと同じ日だが、日本ではあまり知られてない。まあ、そうだろう。

もう20年ほど前だが、この日の前後の教会の礼拝に行ったプロテスタントの教会でこのことを知った。その時に「現代において、プロテスタントの存在意義とは」という話になった。

プロテスタント(protest=抗議する)という名前は、カトリックの堕落に対しての抗議である。その後、両者の対立は多くの政争、戦争につながるが現時点ではそれぞれの存在を承認している。

では、この現代において抗議し続けることに意味があるのか?この答は、ハッとするほどシンプルだったわけだけど、こういう話だった。

「宗教改革はおわっても、私たちは常に自分を改革し続けなければならない。それがプロテスタントの意義である」

The Reformationで宗教改革という意味になるが、他者に改革を説くものはself reformation が求められるという主旨だった。

ああ、そうか、とこの時のことはよく覚えている。

たしかに、アングロサクソンなどの新教徒のストイックな働きぶりを見ると、ウェーバーの理屈を待つまでもなく、直感的にこの発想が身に染みているのだろうと思ったりする。

一方で、このバランスがわるい状況は、傍から見ると相当に不快なわけで、とりわけ政治家が醜く愚かに見える時は、これがダメな時なのだ。もちろん、これは新教徒だろうが、どこの国の人だろうが、ダメな時は同じようにダメなんだけどね。

この話を聞いてから、「世の中を変えるべきだ」という人を見るたびに、このことを思い出す。まあ、それ以上は特にここでは書かない。

そして、本当に何かを変えようとしている人は、批判自体にも、また距離を置いているはずだと思ってる。