アンチ・マスコミとアンチ巨人
(2011年3月22日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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ネットを見ていて「仁科亜希子」とか「こだまでしょうか」あるいは「ぽぽぽぽ~ん」という言葉のやり取りの意味がわからなかった。昨日になって、久々に民放を見たので「AC」のネタだということがようやくわかった。
なんだ、みんなテレビ見てたんだと思ったりもする。
新聞・テレビが系列化されている日本で、「マスコミ叩き」というのは雑誌のお家芸であった。最近では、ネット上で盛んになっていて、マスコミOBの中にはそれを生業のようにしている人もいる。
たしかにAERAの表紙とかコンビニで見たときは「ダメだろこういうの」と思ったけれど逆風は想像以上だったようだ。
今回の震災報道は、まあいろいろ突っ込まれても仕方ないところは多いけれど、興味深いのは「アンチ・マスコミ」の人々のネット上の論調である。
古い話で恐縮だが「アンチ巨人」というのを思い出してしまった。今は死語になってしまったが、「とにかく巨人の嫌いな野球好き」という人々で、20世紀にはそれなりに存在した。彼らの多くは「アンチ自民」でもあったので、そういう人と迂闊に飲んだりすると午後10時を過ぎるころから説教臭くなって、大変に困ったものである。

さて、「アンチ巨人」にはいくつか特徴があって、それはまた「アンチ・マスコミ」に似ている。
まずアンチ巨人は、巨人の存在が自己存在の前提になる。したがって、巨人が弱いと困ってしまう。アンチ・マスコミもそうだ。お笑いばかりのテレビを敵視してもどうしようもないところに、震災報道である。アンチ・マスコミは久々に存在感の増したマスコミの前でとても元気だ。
またアンチ巨人は、なぜか巨人軍の情報に詳しい。同様にアンチ・マスコミの人々も「見なきゃいいじゃん」と思うほど、その状況を知悉している。
そして、アンチ巨人同士が話をすると、これがかみ合わず、まとまらない。この辺りも、アンチ・マスコミの人々と、大変よく似ている。
そりゃ、そうだ。人は「互いに好きなもの」があって前進しようとする。ダークサイドのパワーは、なかなか生産的にならない。
ソーシャル・メディアが「マスコミへの批判機能」を有することは重要である。しかし、単なる「アンチ・マスコミの砦」になっては、今後の展開の足かせになるのではないかと思っている。

■ポスト震災の生活やマーケティングの見通しについて、リポート「震災後の生活と新たな機会」を書いた。こちらからお読みいただけます。