令和とか高輪とか、「名前を受け入れる」ということ。
(2019年4月1日)

カテゴリ:世の中いろいろ

新元号を聞いた時、すぐにしたのはグーグルの検索だった。スクリーンショットを残しておいたけど、早大の川岸令和氏の名前がズラリと出てくる。単に「元号名の候補をチェックしたスタッフの気持ち」が知りたかったというだけなんだけどね。

「お、これならいける」と思ったんだろう。もし彼が憲法に関して国会でいろいろ言ってたりしてたらどうだったんあ?とかどうでもいいことを考えた。

もうこの画面は見られないので、記念に残してみようと思った。

「令和」と見た時、「これは漢籍ではないな」と直感的に思った。あとで、万葉集からの引用と知ったが「令月」という言葉を含めて、自然に根ざした文脈なのだろう。

なんだか「令」の字に反応して、「上から命令される」とか反応した人が僅かにいたようだけれど、今回説明があったように、令の文字はそれだけの意味ではないし、だから人名にも使われるわけだし。

半端な知性というのは、何か困ったもんだとつくづく感じた。

「名前をつける」という行為は、権力の行使ではある。なんか大げさだけど、子どもの命名だってそうだ。生まれたばかりの赤ん坊に一方的に名づけてしまう。地名は自然発生的でも、やがて公的機関が決めるようになる。

だから名前と言うのは「誰が決めたんだよ」「自分は知らないよ」という話になりやすいわけで、最近になって「フィリンピンなんて嫌だ」とかの国の大統領が言い出したりもするのだった。

この元号発表の前に話題になったのが、山手線の「高輪ゲートウェイ」だ。そして、反対署名を集めた識者と称される方々の反対理由を読んでいた、ふと気づいたことがあった。

なんか、おそろしく権威的なトーンなのである。投票1位で由緒ある「高輪」でいいではないか、とJR東日本の「強権」と批判しているようでいて、そこで述べられている理由を読んでいると違和感がある。

権力の行使を批判しているようでいて、単に「こっちの言うことを聞け」と言ってるだけで、結局は権力の引っ張り合いをしているんだなあという感じがした。

だから「名前を受け入れられない心理」ということにあらためて興味を持った。

個人的に、この元号は「すごくいい!」と思ったわけではないけど、「ああ、よく考えたなあ」と感じた。今回は事前に日程が決まっていたし、ネットで皆が勝手なこという中で大変な作業を乗り切ったなあ、と感心する。

「令和」がどんな時代になるかは、そこに関わる人次第なんだろう。だから、「いい名前」かどうかはこれから決まっていく。「ああ、ちゃんと働かなきゃ」と改めて思ったけどね。

だから積極的に関わって行きたい人にとっては前向きに捉える言葉だろうし、「なんか違うなあ」とかいつまでも言ってる人は、時代の傍観者だったり、知識ばかりで年とっちゃった人なのかもしれない。

元号でも駅名でも、「名前を受け入れるかどうか」は、人の見えない何かを見せてくれるように思う。

※そういえば「名前」に関しては「名前と人間」という言語学の名作があるのだった。これは言語学の隙を突いた傑作だと思う。