「出来過ぎる画家」藤田嗣治を見て、『ゴッホの耳』を思い出す。
(2018年10月6日)

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もう1ヶ月以上も前だが、上野で行われていた藤田嗣治の展覧会に行った。

まだそれほど混んでいることもなく、ゆっくり見ることができた。年譜を追うようにした構成であり、彼の作品を見るということ以上に、彼の人生を追うような感覚になる。

一人の、それも波乱に満ちた芸術家の生涯は興味深いものがあるけれど、では、作品を見て心が動かされるかというと、それはまた別の問題だなあ、と改めて思ったりもした。

藤田嗣治の作風は、生涯を通じて大きく変化する。それは、多くの芸術家に見られることだろう。

でも、じわじわと滲むようにして変化する人もいるし、天啓を得たかのように転換点の作品を描く人もいある。そして藤田の場合は、ある時期にクルッと舞台が回るように、別の顔が出てくる。その舞台回転は何度も起きる。

藝大では黒田清輝門下らしい光を見せるし、パリへ渡ればキュビズムを難なく模し、モディリアーニをなぞる。あの乳白色はたしかに「発明」だと思うけれど、その後南米では、全く異なる光を描き、そして戦争画へと続く。

しかし、僕の心の中で、何らかの共感のようなものは湧いてこない。

もっとも、普通の人が偉大な芸術家に共感できるわけない、という考え方もあるだろう。

でも、僕はちょっと違うと思うのだ。

凡人でも、偉人の苦悩を掠るように感じることはあるし、天才の感性を一瞬なぞることもあるんじゃないか。というか、その「ちょっと重なったような錯覚」があるから、時代を超えて多くの人に愛される。

この「愛される」というのは、「何か気になってしょうがない」ということだろう。

ただ、晩年の宗教画にいたるまで、彼は「描ける」画家であり、ある意味「出来過ぎる」人だ。そして、肖像画を見るたびに、強烈な顕示欲と自己愛を感じる。

戦後の言われ方については、日本画壇や社会の狭量さを強調する人も多いようだけれど、「まあ仕方ないんじゃないか」というのが僕の感覚だ。

そんなことを感じつつ、この展覧会を見ながら思い出したのは、今年読んだ『ゴッホの耳』というノンフィクションだった。

あの有名な事件の真相に明らかにするために、アルルの役所の中にある文書などをひっくり返し、ジワジワとゴッホの生前の姿に迫っていく。そこから浮かんでくる哀しさは、どこか共感できる部分がある。あの自画像に惹かれる理由も、おぼろげながら分かった気もする。

いまのところ今年読んだ本の中で「ベスト10」に入る一冊で、ゴッホが気になる人にはぜひお薦めしたい。ちなにに藤田嗣治の展覧会は10月8日までだ。

何か、薦めているのかどうかよくわからない書き方だけれど、いろいろ考えさせてくれる展覧会ではあった。