自宅近くの、とは言ってもちょっと離れていて普段あまり行かないエリアに文房具屋がある。
この間、久しぶりに通ったらまだ営業していて懐かしくなった。
というのも、いまから15年ほど前にここで一度だけ買い物をしたことがある。履歴書を買ったのだ。
ちょうど40歳を前にする頃で、会社を辞める決断をしていた時だった。「辞める」と決めて、家族や親しい人に伝えたのはいいが、「この仕事までは」と頼まれたりして実際に辞めるまでには2年かかった。
そして、自分自身もまだ揺らいでいた。
何といっても、辞めた後の具体的な仕事の予定が全くなかったのである。
会社を辞めて仕事を始める場合、それまでの会社との取引を継続する人もいる。広告代理店のクリエイターの場合は、こういうケースも多い。クライアントの信頼があれば、所属に関係なく注文は来るのだ。
ただし僕は本社部門にいたし、そもそも広告ビジネス以外の仕事をしたかったので、それを当てにはできない。
そこで、いろいろ調べてみると「パートナー」のような形の社員を求めている会社があることがわかった。いまだと、「多様な働き方」として増えてきたけれど、当時は珍しかったのではないだろうか。
ちょうど自分のスキルが活かせそうな会社なので、応募してみるのもいいかと思った。
そして、ある日会社を休んで履歴書を買いに行った。
履歴書を買うのに有休を使うこともないし、会社の帰りに自宅近くのコンビニで買ってもいい。
ただ、なんかそういう気分にならなかった。
いろいろと不安な気持ちの中で、家のまわりを特にあてもなく歩きながら考える。小さな個人事務所や、古い喫茶店を見ると「まあ、会社勤めしなくても生きている人はたくさんいるよな」と自分に言い聞かせる。
そうしたら、文房具屋が目に入った。履歴書を買って、家に帰る。ただ、いくら考えたって結論は出ない。
「次の仕事」のあてもなく会社を辞める。その成功確率を上げる努力はしても、保証などはない。もちろん勤めてる会社がなくなることもあるから、あらゆる選択肢は博打だ。
なんらかの安全を求める者に、博打をする資格はないんじゃないか。
やがてそんな気分になって、履歴書は使わなかった。
はじめて書いた一冊の単行本を頼りに、会社を辞めた。
会社を辞めて、フリーになるには一定のスキルが必要だと思うけれど、それは必要条件の一つだとつくづく思う。
あの頃の不安な気持ちを思い出すことは難しいが、その文房具屋の前を歩くと、少しだけその時の気分を思い出す。
あれ以来、店の中に入ったことはない。