「現金中心社会」は「いい社会」なのか?
(2017年12月26日)

カテゴリ:マーケティング

じゃあ、日本人はどうして現金が好きなのか?

簡単にいえば「現金」というものが「いい記憶」として保持されているからだろう。おカネがある、ということはありがたいことで、現金は誰もが交換の際に受け取ってくれる。

そんなこと当たり前だろ、ということになるかもしれないけど、それは国によっても違うだろ。

そのお金が「本物」であるとは限らない。信じていたお金の価値がどんどん下がってしまいただの紙切れになる。お金なんか持って歩いていたら、狙われてしまう。

そうした国では、「富は大切」だけれど、「現金が好き」ということにはならない。ところが、日本では現金が負の記憶と結びついていないのだろう。

それに、現金を持ち歩いてやり取りできるのが「いい社会」だ。そう信じている人も多いんだろうなぁ。

うちの近所の酒屋には、レジ脇に妙な枡がある。中に1円玉がギッシリなのだ。

ここには、いい地酒が揃っていてよく行くのだけれど、この1円玉は「足りなければ使ってください」というお金なのだ。

たとえば「1296円」支払う時に、手持ちの1円玉が3枚だったとする。そうした時に、あと3円をここから頂いて支払う。それでOKなのだ。

では、どんどん減るかというとそういうわけではない。客が補充するのだ。ある時に拝借したら、別の日には財布の1円玉を入れる。

僕もそうしているのけれど、そんなわけでこの枡の1円玉は特に減ることもない。

外税になって、何かと小銭が面倒なので電子マネーを使う人が増えたと言われる。しかし、この「1円玉フリー」のシステムだと、相当楽だ。

システム、と書いたけどまったく単純で原始的で、そこには何の新しいテクノロジーもない。

でも、相当に高度な信頼関係がないと成り立たないと思う。いつも拝借する客ばかりだったら、1円玉は底をつくだろうし、そうすれば店も続けられない。

僕は、この店に行くたびに「日本人の現金好き」の根っこを見るように思う。

スマートフォンなどによるシステムを作ることと、信頼しあう社会を作ることと、どちらが難しいのか。なあんて書くと、もういかん。

現金教の人々は、間違いなく後者を選ぶだろ。そして「財布を落としたら届けてもらった」という外国人旅行客のエピソードを聞いて、「やっぱり日本はいい国だ」と安心するに違いない。

そう考えると、現金崇拝の心理には妙な屈折があるのかもしれない。「やっぱり現金」と言う時の「やっぱり」には、新しいことに対する頑なな拒絶がある。

でも、その心理は日本の足を引っ張るのではないか。これからの数年で通貨の意味合いは世界規模で大きく変わるだろう。日本が現金中心のシステムに執着すれば、社会全体の不利益になるかもしれない。キャッシュレスを後押しする政策がもっとあってもいいだろう。

本当にいい社会であれば、支払い方法が変わったくらいで揺らぐことはない。そして、あの枡の1円玉はそれでもまだ残ると思うしね。