この本のタイトルを見た時に既視感を覚えた人はいるんじゃないだろうか。そう、佐野眞一氏の『誰が「本」を殺すのか』という本が話題になったことがある。
作り手と売り手、そしてチャネルなど業界関係者の意識変化がなかなか進まないままに、気がついたら風景が一変していた――そういうところは、出版とアパレルの両業界に類似点はあるかもしれない。
しかし、「誰が」という問いに対して犯人を特定することは難しい。何に近いかというと、『オリエント急行の殺人』のようなところだろうか。もっとも、服そのものに罪があるわけじゃないのだけれども。
この本の中に書かれていることは、まったくその通りだと思う。また、終章に描かれている、新たなチャレンジャーの方向性も納得できる。しかし、それ以前に市場が一段と縮小していくのは避けられないと思う。
それは、景気とか少子高齢化とは全く別の動きなのではないだろうか。カンタンに言うと、「自己表現する」あるいは、「顕示欲求を満たす」手段として服の役割が終わりつつあるんじゃないか。
少なくても、日本ではそうだと思うし、先進国の状況は似ているように感じている。
「服を着る」ということ自体は、人が生きていく上で「道具」として必要なものだった。それが、どのようになったかは、「ご覧の通り」としか言いようがない。
そして、衣服はある時代から社会学や哲学の研究対象となっていく。「モード」を語ることは、人のあり方を語ることのような時代もあった。というか、そういう人もたくさんいて、普通に暮らしてセールを追っかけるくらいの人たちも、彼らの分析対象になっていた。
それほど、人々はファッションにおカネを使っていた。
しかし、「別にいいんじゃないか」と思った瞬間に、衣服への支出はいくらでも減らせる余地があることに気づく。そんなの変じゃないか、とアパレル関連業界の方がどんなに思っても、「どうして服におカネかけるの?」という問いには誰も答えられないだろう。
同じようなことは、クルマの世界でもずっと起きている。そして、日本においてクルマとファッションの置かれている状況は似ているのではないかな。
その理由は結構単純で、それは普通の人が「貴族の模倣」をすることに飽きたんじゃないかと僕は思う。
贅沢な装いというのは、かつて貴族階級の特権だった。「ベルばら」でも「源氏物語」でも同じようなこと。20世紀になった頃から、普通の人もおカネを払えばそれなりに模倣ができて、みな夢中になった。
ちなみに、着道楽の貴族の楽しみの一つは狩猟だった。『戦争と平和』で狩猟の場面が延々と描かれるシーンがあるけれど、自らの馬や猟犬への思い入れがよくわかる。やがて、馬は自動車となる。
だから、それなりの豊かさを手にした人が「服とクルマ」にカネをかけるのは、貴族の模倣としてはとてもよくわかる。
貴族の住居は真似するわけにはいかない。だから「服とクルマ」は、模倣の対象としてはある意味手ごろだし、相性もよかった。クルマの広告では、スタイリストもまた腕の見せ所だったと思う。
いまでも「セレブのファッション」が話題になるのも、その名残だろう。
でも「模倣」というのは、阿波踊りのようなもので、皆が一所懸命な時には気にならない。しかし、ふと気づいたら周りの人が殆どやめていたらどうなんだろうか?
クルマも服も、また実用の道具としては大切だけれど、どれだけおカネをかけたいと思うんだろうか。
という風に考えると、アパレルを殺す犯人は、きっと見つからないだろうなあ。