人の訃報を、語るということ。
(2017年6月26日)

カテゴリ:世の中いろいろ

金曜日の昼頃、とある店でランチを待っていると近所の会社員のグループが入ってきた。

その少し前にニュースで伝えられた、とある人の訃報が話題だった。長く闘病生活を続けていたこともあり、話題になること自体は普通の流れなのだろう。

比較的大きな声で話しているのか、その声が聞こえてきた。

若くして亡くなったその方、あるいは残された家族への「お悔み」のような会話もそこそこに、年配の男性が自らの家族の経験について話し始めた。送ってから時間が経つのか、屈託なくその頃のことを語っている。「転移」とか「結局は」とかそんな言葉が耳に入る。

程なくして、一緒にいた人もいろいろと話していた。

人の訃報を語る、というのは結構難儀なものだなと思った。

どうやら、彼らの身近な人の中で、いま現在患っている人はいないようだ。しかし、もしその周辺にそうした人がいたらどう感じるのだろうか。やはり、病にまつわる話はもう少しひっそりと話した方がいいのかもしれない。

実は、そういう思いをしたことがある。数年前、父が他界してようやく落ち着いた頃のことだ。とある店で食事をしたのだが、隣に医療関係の仕事をしている女性ばかりのグループがいた。

この時も、患者の容態やら経過について結構耳に入るような声でしゃべっている。しかも、食事中の会話とは思えないほど生々しい描写もある。

いろいろと辛い思いをしてから間もないこともあり、どうにも堪え難くなり、「少々声を落としていただきたい」と言ったら程なくして席を立っていった。

人の死を語る。それは、どのような時でも厳かであるべきだ。そんなことは誰でもわかってはいるだろうが、実際はそうはいかない。ことに有名な人が劇的な最期を迎えたときは、そのニュースを聞いた多くの人がどこか昂った気持ちになっているのだろう。

僕も、金曜の昼はそうだったと思う。ところが、隣の席の会話を聞いた時に、あることに気づいた。

そうか、こうやって人の訃報を話すことで、みないま生きていることに安堵しているのか。その安心感が、あの無防備な大きめの声になっているのか。

そんなことを感じて、その後に関連するニュースを見ると、すぐにテレビを切ってしまった。メディアも、相当に「大声」ではないのか。

人の死を、特に有名だった人の訃報を、残されたものが語るというのはどういうことなのか。いろいろと考えてしまう。
たまたまその日の朝に、イギリスのヘンリー王子のインタビューをテレビで見た。ニューズウィークのインタビューで「誰も国王にはなりたくない」という見出しになっていた記事もあったが、母、つまりダイアナ妃の葬儀で苦痛を語った部分が印象的で、こちらにまとまっている
「母が亡くなったばかりなのに、母のひつぎの後ろをずっと歩いていなければならなかった。それを数千人が周りで見ていて、さらに数百万人がテレビを通じて見ていた」

その時の辛さを振り返って、こう言っている。
「どんな状況であれ、子どもにそんなことをさせるべきではない。」(“I don’t think any child should be asked to do that, under any circumstances. ”)
僕もその時、テレビで見た数百万、いや数億人の1人だった。そして「かわいそうに」「お母さんに似てるね」などと話していた記憶があり、20年以上が経ちその時12歳だった子どもの気持ちを始めて聞いたことになる。
複雑な気持ちだ。

そんなこともあり、訃報を語る、ということについていろいろと考える週末だった。なお、ヘンリー王子は先のインタビューでこう続けている。
「今はそういったことは起こらないと思う」(”I don’t think it would happen today.”)
今回の件でも、もちろんそうあってほしい。