先週の木曜日に、国立新美術館の「ミュシャ展」に行った。噂の「スラブ叙事詩」は、あのスケールに浸るという楽しみはあるけれど、個々の絵を見ると「ダヴィッドのスラブ版」という感じもする。別に貶してるわけでもないが、褒めてるわけでもない。
会場に着いたら、チケット売り場には列ができていた。twitterでそんなことが書いてあったので、チケットは移動中にタブレットで買った。しかし、どうして美術館のチケットを買うのに、自宅住所を入れるのか。まあ、それは本題じゃない。
中に入って驚いたのは、結構な列ができてたことだ。ウワ!と思ったら、ミュシャではなくて、草間彌生だった。と思ったら、会場の入り口は空いている。この列は、草間彌生の「グッズ」を買う人が、レジに向かって作っている列なのだ。
待ち時間、40分。週末はもっとすごいことになったようだ。
前衛の旗手と言われた彼女の集大成ともいわれた今回の展覧会だが、人々が列をなすのは工業製品を買い求めるためだ。違和感、というには安直でなんとも不思議な気分だ。
考えてみれば、「モノからコト」といっても、話は単純ではない。草間彌生を見て感じて、それでも何か「モノ」を求める。
そういえば、「御朱印」を転売する人がいて、ネットでは結構な値がついているいうニュースもあった。人気の寺社では「1人当たりの朱印」の数を制限するという。罰当たりと言うより、どこか滑稽だ。
つまり、モノはいらないけど「証拠」は欲しいのだろう。そして、「コトに付随したモノ」に人々は列をなす。
それは草間彌生だったから驚いたけど、まあ商いとしてはもう古典的だ。ジャニーズ事務所に所属するタレントのコンサートもそうだし、もっと遡ればディズニーランドのグッズもそうだ。
「モノより思い出」というミニバンの広告があった。調べてみると、1999年だ。その時は「まあ、そうだよな」と思ったけれど、それから時が経ち、話はちょっと違っている。
モノはいらない。だから新車は売れないし、ファッションも不調だという。ただ、それはモノ自体への所有欲の話だろう。
コトに付随した稀少性のあるモノは欲しい。なんというか「こじれた物欲」がそこにある。しかし、こじれた欲求は結構根深い。
少し前の、ネットゲームの「ガチャ」からポケモンまでそういうこじれ方がある。そして、思いついたことはこうやって文章という「証拠」にするわけで、僕の欲求もまたどこかこじれているんだろう。
でも、御朱印におカネは出さないけどね。