コンビニに入ったら、猫と目があった。いかん、ananか。2/22の「猫の日」(って誰が決めたんだか)がも、いらぬ市民権を得て増殖している。
猫好きは、なぜか猫まみれになる。それを知っているからか、猫好きを狙って、さまざまな猫グッズが溢れる。特にミュージアムショップは鬼門だ。
ふと気が付くと、手持ちのクリアファイルは猫だらけだ。藤田嗣治に徳川美術館、もう一つは山種だろうか。
仕事別に「これは猫のファイル」というつもりで整理していたのに、気が付くと他の仕事の書類があったりする。これだけ猫のファイルがあれば、混乱するのも仕方ない。
折りたたんで持ち歩いているショッピングバッグは猫と音符と鍵盤がデザインされているけど、これは新国立劇場のロビーで買ってしまった。
なんで、オペラハウスに猫グッズがあるのかと思うが、東京文化でも浜松楽器博物館も猫グッズが多い。
美術館だけではなく、ホールも狙われている。猫好きの消費行動は読まれているのだ。
それにしても、なぜ猫グッズは増殖して、人はそれにはまるのか。これは、犬では見られないと思う。犬好きと猫好きの違いは、性格もあるのかもしれないが、「犬」と「猫」に対する姿勢が違うんじゃないか。
犬好きは自分の犬を中心にして、それに近い種のものを「犬」と認めていると思う。僕も犬を飼っていたことがあって、それは携帯電話CMの彼をちょっとくすませたような犬だった。
だから柴犬とか、顔の尖った感じの犬は「犬」だと思うけれど、チワワや土佐犬などは犬であって犬ではない気がするし、プードルも何かが違う。
一方で、猫好きは自分の猫を一番と思いつつ、そこら辺の猫を「猫だ~」と言って喜ぶ人が多いと思う。猫も種類によって風貌は異なるが、犬ほどの違いはない。そのため、大概の猫を猫として愛でる。
ここに猫グッズの入り込む余地がある。
また、アートにおいては猫の方が有利だろう。昔から猫は洋の東西を問わず、生活の中に滑り込んできた。源氏物語では人の運命を翻弄するし、徒然草では猫またも出てくる。それに、最近の日本がブームではやたらと猫がポスターなどに起用される。
赤瀬川源平の「ニャーンズ・コレクション」も傑作だ。
フォルムとしてもシルエットがきれいなので、デザインしやすい。そして、そのシルエットを見れば、猫好きは「ああ猫だ」と認知するわけで、この辺りも犬よりは増殖する理由だろう。
しかし、何といっても、これは猫の陰謀ではないか。猫はそうやって人間を支配しようとしているに違いない。
猫が増えれば、人々は「まあアクセクしないでもいいか」と思うようになる。そうだ、陰謀だ。この猫ブームは、安倍政権の誕生と一致する気もする。そうか、「働き方改革」のために猫が尖兵となって、あっちこっちでゴロゴロニャンニャンしているのか。
というか、こんなことを書かせている時点で完全に猫の勝利である。そろそろ昼寝から覚めてくるし、遊んでやらねば。