人をどのような代名詞で呼ぶか?というのは日本人にとっては、なかなか議論の尽きない話だ。日本語の代名詞についての特徴は、以前こちらでも書いたが鈴木孝夫氏の「ことばと文化」が実におもしろい。
そうした代名詞の使い分けは面倒だけれど、意外なメリットもある。
銀行を装っているメールなのに「貴様のアカウント」とか書いてあるために、一発で「これはダメだろ」とわかる。外国人の詐欺団にとって、日本語は参入障壁なのだ。
そして、欧米語に比べると、代名詞だけではなく、「おじさん」などの「親族名称」でを使い、それが時には他人にも使われる。
というわけで、人の呼び方はいろいろだが自分の配偶者をどう呼ぶか?というのはなかなか難しい。
そんなことを考えたきっかけは作家の川上未映子氏が書いた『「主人という言葉が心底嫌い」というタイトルの文を読んだからだ。
彼女は、自分の夫を「主人」と呼ぶのを聞くと気が滅入るという。また妻を「嫁」と呼ぶことも嫌いだという。「主人」も「嫁」も差別用語として認識されるべきという話だった。
個人的には「嫁」は使わない。彼女の書くように「夫」「妻」でいいとは思う。だから主旨は理解できる。でも、この文章には何だか違和感がある。
どうしてだろう?
1つは、言葉遣いだけを取り上げて、その人の価値観を決めつけていることかな。「主人」という言葉を使う女性はよほど年配でない限り周りにはいないけれど、30代の男性は結構よく「嫁」ということが多い。僕は使わないので、どうしてだろう?とは思うけれど、少なくても彼らは差別主義者ではないよ。
もう1つは、言葉とその発話意図についての考え方が何となく表面的だなあ、と思うことだ。
彼女はこう書く。
「ふだんから無意識に「主人、主人」なんて言ってると、知らないうちに奴隷根性がすりこまれて、ここ一番というときに自立心が発揮できなくなる気がする。」
でも、どうなんだろう。人間ってそこまで単純なのかなあ。
江戸時代の川柳にこんな一句がある
「先生と呼んで灰吹き捨てさせる」
灰吹きとは、灰皿のようなものと考えてもらっていいだろう。口では「先生」と言っているのに、雑用を頼む。「どう呼ぶか」と心の本音は結構それぞれだよね、という気分を軽妙に表現している。
言葉づかいというのは、そういうちょっとした屈折があり、その辺りについて作家というのは、卓越した感性を持っているんだと僕は思っていた。だから「嫁」や「主人」という言葉を使う人の心理を、僕なんかが気づかない視点で掘り下げてくれるのかと期待したのだ。
だから、拳を振り上げて「使える言葉を減らそう」という作家がいることはちょっと以外でもある。
ただ、もっと驚いたのは最後の文章だ。「今日もフレシネを飲んで、そんなことを考えた」というわけで、フレシネってなんだっけ?あ、そういえば最初の方に「PR」ってあったのはこのことかと。
この文章はサントリーのPRということだけど、そこで思い出したのは「金麦」だ。あのCMに出てくる女性はお酒を「冷やして待ってる」はずだ。結局待ちきれなくて、飲んじゃったりもするんだけど。そこで描かれている世界も彼女から見れば違和感があるのかな。
あ、そうか。フレシネと金麦は違う世界だから、別にいいのか。