もう、メディアというのは「残念な仕事」になってしまったのだろうか。
電通のデジタル不正からDeNAの今回の事件で、デジタル分野は大きなダメージを受けたけれども、マスメディアの信頼が上がったり、接触が回復したという感じもしない。たまたま、事件がデジタルで目立ったけれど、朝日新聞の一件などはまだ重くのしかかっていると思う。
感じるのは、「志」が低いなあ、というか「志」という概念自体が、もうないんだろうなということだ。
何でかな?と思うと、メディア産業がいろんな意味で「立派」になり過ぎたような気がする。そして、「これからはメディアだ」という時代の気分が、もうバックミラーの彼方になっていることと関係しているようにも思う。
「脱工業化」という言葉が、あった。「あった」というのは、もうそういう感覚でもないし、いまも工業だってちゃんと存在している。だから、ある時期の流行り言葉であったとは思う。
でも、その頃のメディア関係者は「本当にそういう時代になったら、どうすればいいいんだろ」とビビッていたようなところもあったと思う。
その辺りの感覚を知るには、梅棹忠夫の「情報の文明学」という一冊がいいと思う。
この本にある「情報産業論」という一文は、1962年のものだ。その後の情報論も多く所収されて、最も新しくても1980年代後半だからある意味「昔の話」といえばそれまでだ。
しかし、そういった情報産業の歴史を知ることは、本質的な「志」を確認することでもある。
新しい文化は、過去の否定に成り立つという面もある。「面もある」と書いたのは、多くの「新しい何か」は過去の無形資産の上に成立していて、すべてが否定されていることはない。
それはメディアでも同じだ。少なくてもモラルや倫理などの「精神」については、ある種の普遍性があると思う。
ネットの文化には、マスメディアへのアンチテーゼや対抗意識が強くあって、それがエネルギーになっていたとも感じるけれど、気がついたら量を追求して志が感じられなくなって、ダークサイドに堕ちてしまったんだろうか。
昔のことを「古い」で済ませてしまって本質を見なければ、同じことは繰り返されるかもしれない。