自然環境が作曲家に与えた影響は、もちろんあるんだろうなと思う。
シベリウスの音楽を聴いて、南国の空を連想するのは難しい。また、「泥臭いけど妙に明るい」と思ったら、「イタリア奇想曲」だったりする。
もっとも、「アルペン交響曲」のようにズバリと言われると、「はい、わかりました」という感じになって、夏の信州で聴いていても妙に納得してしまう。
ただ、作曲家の経験とまったく関係ないのだけれど、勝手に「こういう時に似合う」という音楽があって、僕の場合「ドヴォルザークと里山の秋」は最高の相性だと思う。
なんというか、ドヴォルザークの田舎っぽさというのは、西洋東洋を越えて普遍的なんじゃないだろうか。
チェコの田舎はもちろん、中国内陸の水墨画の世界に合いそうだし、ケンタッキーの草原でもいいんじゃないか。「交響曲」のようにフォーマルな曲にしても、「スーツにネクタイ」という風情ではない。「コーデュロイのジャケットにネルシャツ」という感じがする。
険しい山中の村、というより群馬あたりの平地で、近くに山を臨むような風景だ。芋畑が広がり、柿の木があるような風景。
もう、そういう風景とドヴォルザークは、やたらと合うので、「前世は上州の蒟蒻畑の小作農」とか言われても、納得しそうだ。
というわけで、秋になるとドヴォルザークを聴きたくなって、その中でもチェロ協奏曲に惹かれる。チェロのソロが、秋そのものとしかいいようがない。もしやと思って確認したけど、1894年の11月から翌年1月にかけての作曲だった。想像以上に寒い季節だが、やぱっり夏ではないのだなと勝手に納得する。というか、この曲が書かれたのってマーラーの「復活」と同じ年なで、日清戦争の時か。ちょっと不思議だ。
というわけで、秋のドヴォルザークと相性がいいと信じでいるのが里芋だ。煮ても揚げてもいいけど、「芋煮鍋とチェロ協奏曲」が最高じゃないかと勝手に信じてる。
自宅の近所に群馬の農産物を直送で売ってる店があって、ここで芋とコンニャク、ネギに珍しいキノコなどを買って来て、チェロを聴きながら芋煮鍋。ちなみに、好きなディスクはフルニエ。あまり豊饒なチェロよりも、このくらい引き締まった方が、里山の空気感に合っていると感じる。
「ドヴォルザークを聴かせた芋はうまい」
ほら、なんか信じそうになるでしょ。