こういう話は統計的な分析が難しいのだけれど、実は「シャッター商店街」というのは見た目が廃れているほどに、当人たちは困っていないのではないか。
それは、肌感覚で何となく感じていた。
僕は生まれてこの方、都区内西部の似たようなエリアに住んでいるので、ほぼ定点的に見ている。そして、たしかに個人商店は減っているのだけれど、その店主が困窮したという話はあまり聞かない。
あるとすれば、バブル期に余計なところにカネを突っ込んだとか、勢い余って地方議員になろうとしたとかそういう話で、この場合は消息すら分からなくなる。
ただ店を閉じたとしても「十分働いた」という場合が多い。「潰れた」のではなく、「畳んだ」のである。子どもは十分に自立していて、もう後を継がせる必要がないという。
スーパーはダメで「野菜や肉・魚は個人商店の方がいい」という人もいるが、それは「今でも残っている店」がひときわ頑張っているからだろう。単に商店街の一等地という既得権益に胡坐をかいてたような店は、平成の初め頃に殆ど淘汰された。
「シャッター通り」をチェーンストアのせいにするのは簡単だが、多くの客は殿様商売に辟易としてたからスーパーに行ったのだろう。また、追い詰められて店を閉めたとは限らない。
そういえば近所に数件豆腐屋があったけど、一番評判のいい店は最後まで残った。「マイタッパー」を預けている客もあったくらいで、駅近くの飲食店にも卸していたが主人が急逝してしまった。店を閉めた魚屋や肉屋の主人にはたまに顔を合わせるが元気だ。もう十分に働いたのだろう。
「シャッター通り」をチェーンストアのせいにするのは簡単だが、多くの客は殿様商売に辟易としてたからスーパーに行ったのだろう。追い詰められて店を閉めたとは限らない。
東洋経済オンラインに木下斉氏が寄稿している「シャッター商店街」は本当に困っているのかという記事は、まちビジネスの専門家がそのあたりの事情を解説しているが、僕の肌感覚と同じで、以下のように指摘している。
「シャッター商店街の不動産オーナーが明日の生活にも困っているかと言われれば、そんなことはない、むしろ豊かであることが多くあります。」
ある時代に十分に稼いで、いまでも不動産収入などがあるケースも多い。本当に困ったら、シャッターを閉められないわけで、そこに補助金をつぎ込むことの問題を鋭く指摘している。
それにしても、どうして「シャッター通り」というのは情緒的に報道されてしまうのか。この問題だけではないけれど、これはメディアの「昭和良かった病」の典型なんじゃないか。
大手流通を悪者にするのは簡単だ。しかし、商店街は圧力団体として規制を求め続けて、努力しない商人を増やしたんじゃないのかな。その結果がシャッター通りなのだとすれば、「仕方ない」ことかもしれない。
先の記事には、合理的な処方箋も書かれている。こういう議論をもっとした方がいいし、そのためにも「昭和良かった病」を加速させるような報道は足を引っ張るだけだと思う。
それにしても、そういうのを好む高齢者を客にしているマスメディアは、それを止められないのか。
それじゃ、テレビや新聞が「シャッター通り」になっていくと思うんだけど。あ、もうシャッターは閉まり始めてるのかな?