昨夜、落語会に行った。柳家喬太郎と柳家三三の二人会だった。
前半は三三から喬太郎、後半は逆になる。
三三は枕もそこそこに「締め込み」だが、夫婦のやり取りがスピーディで、言葉の端々までよく練られている。彼の得意な持ちネタだ。
続いて、喬太郎はウルトラマンあたりのネタを長々と話してから「擬宝珠」と言う流れ。これがまた結構変わった話で、彼以外に現在は演じる人はいないのではないだろうか。普通の解説本にはなく、東大落語研究会の「落語事典」にはある。江戸時代安永の頃に原形があるようだ。
中入りを挟んで、喬太郎は新作の「純情日記渋谷篇」で、三三は季節外れの「夢金」と言う流れでお開きだった。
この日もそうだが、喬太郎の舞台がどうも気になる。それは、あまりいい意味ではない。
元々が相当に達者な人だと思う。古典は何をやってもうまいし、圓朝の作品などはたまげたことがある。三鷹の井心亭で聴いた時などは本当に引き込まれた。
一方で、最近の落語会、ことにこうしたホールでは首を捻ることが多い。なぜか妙に力んでいるのか、この日も枕でのウルトラマン話が延々と続くのだが、どこかくどい。落語にしては広いホールだがよく響く杉並なので、時に喧しくなる。噺に入ってからもその傾向は同じだ。
そして、新作なのだけれど、残念なことにこれもまた力で押す感じだった。客席は沸いているが、先は読めるしオチも見える。
近年気になるのは、喬太郎が相当迷っているのでは?ということだ。僕はSWAの頃にもよく行ってたし、新作は好きだ。ただ喬太郎の「ハンバーグができるまで」や「純情日記」のように、若いカップルが登場する作品は聴いていて辛くなることがある。
こんなことは本人はとうに承知だと思うが、彼の新作は演劇的な面がある。だから登場人物のせりふ回しが「その人のように話す」ことになって、落語とは違う。これは、若い時なら「若い男」を演じても通じるし、「若い女」でもまあ笑いがとれる。
ところがこの位の歳になると、「若者の物真似」、しかもあまり上手でないものを見せられているような気分になってしまう。
一方で、サラリーマンが出てくる新作はまったく気にならない。
ただし、彼については「青春ものの新作」はもう結構、と言うのが正直なところだ。それは、白鳥や昇太のような「古典になりうる作」とは異なる魅力のものだと思うからだ。
つまり、喬太郎の「青春もの」は、ある時代にある歳の噺家が演じるにはいいけれど、その「旬」は結構短いと感じる。それでも、そうはいかないところに彼の迷いがあるのだろうか。
ただ、迷うのはいいのだけれど、折角の名手なのに噺が雑になることが多い。以前三三との二人会でも似たところがあった。スゥーッと心地よく進める三三に対して、やたらに煩い「初天神」を聴かされた。今回も、しつこさばかりが印象に残る。どこか、彼に対してコンプレックスでもあるのだろうか。
古典をやることが確定している会ならぜひ行きたいが、こんな感じが続くと喬太郎の高座については、当面二の足を踏んでしまう。ああ、ぜひみっちりと喬太郎の古典を聴きたいのだが、それはそれほどに大変なことなんだろうか。