2016年6月19日(日) 14:30 国立能楽堂
解説 「都と紀ノ國 -執念の炎-」葛西 聖司
仕舞 「錦木」観世喜正
仕舞 「野宮」観世喜之
仕舞 「船橋」五木田三郎
狂言「鍋八撥」野村万作 中村修一
能「道成寺」中森 貫太 殿田謙吉 野村 萬斎 亀井広忠 幸正昭
====================================================
木曜にセルリアンで能を観て、翌日パルコ劇場に行って、日曜は千駄ヶ谷。その次は横浜で宝塚なので、1週間で4回も舞台を見ることになる。
「能を知る会」は、初めて行った。鎌倉能舞台を主宰される中森貫太氏が手掛けているが、解説などを含めて大変行き届いた会だと思う。観世九皐会の観世喜之氏に師事されたようだが、同会の「のうのう能」と同じく、普及にも相当尽力されている。
そうした人気シリーズで、あの「道成寺」である。もちろん、満席だ。
「道成寺」は、傑作であるとともに、破格だ。僕はまだ二度目だが、能の知識が少なくても、舞台に関心がある人なら、「おもしろい!」と思うだろう。だから道成寺を演じて、それを観る人が増えれば、能のファンも増えていく可能性はあるだろう。
何といっても、始まる時から緊張感が漂う。4人の狂言鐘後見が、舞台に入ってきて、吊り上げられるまでに、既に舞台に引き込まれる。その後の演出も、ある意味で「能らしさ」とは少々異なる、強い情念の世界だ。名作で、かつ「引力」が強く引き込まれる。
とはいえ、能は道成寺がすべてではない。だから道成寺を見た人を「次に何を見てもらうか」は能の普及においては一つの課題だろう。
この辺り、クラシック音楽における「第九」と似ているかもしれない。たしかに名曲だが、相当に破格だ。かといって、「ハイドンの104番」をビギナーに薦めても、どうなんだろうか。名曲といっても、「引力の強さ」は別次元だと思う。
道成寺は、演じる準備も相当に大変であるとは言われる。冒頭に中森氏の挨拶があったのだが、今回が4回目と聞いて、改めて驚いた。「26年前に29歳で初挑戦させていただいた」というが、その後の道のりは能の世界ならではだ。1つの演目を生涯で演じることが、これほど限られる世界はそうそうないだろう。「第九」だって、年末ともなれば同じ演者が何回もおこなう。他のカテゴリーもそうだ。
だから、一つひとつの所作や、小鼓との間合い、そして鐘入りに至って舞台が震えるほどの混沌と静寂。そうした時間の密度は、他では体験できない濃密さだ。
書いていて思うのだが、能舞台ほどこうした記録は難しく、僕の筆力ではほとんど無理だ。
だからこそ、能の緊張感は生まれる。一期一会という言葉が、これほど沁みる経験も少ない。解説の葛西さん、仕舞、そして狂言の「鍋八撥」も充実して、密度の濃い会だった。