また、というか最悪の銃乱射事件が米国で起きた。
最近だとパリのテロでもそうだったし、いつも感じるのだけれど、銃撃で多くの人が亡くなった事件の報道は、しばしの沈黙を呼ぶ。
他のニュースを超えて、一瞬時間が止まって言葉を失う。2012年12月の小学校での乱射事件では、たまたま米国内にいたのだが、混乱と恐怖で画面が凍ったような感じになる。
大災害などもで息をのむ瞬間があるけれど、こうした沈黙ではない。少しでも助かるように、というザワザワした感覚だ。
ただし、銃の事件は何か違う。人が人を殺める。それも、短時間に大量の人々を、1人の人間が葬ってしまう。それは、銃という武器の特性かもしれない。
生から死へのプロセスが、あまりに短く瞬間的だ。命乞いも祈る時間さえないまま、この世から去って行く。そして、武器を持つ人間は、遠い距離にいることもできる。
歴史小説などを読んでいて気づくのだが、銃が登場した後とその前では、戦いの描写、ことに「落命の瞬間」の描き方が全く異なる。
一番わかりやすいのは、日本の戦国時代だろう。ちょうど、鉄砲が導入されていく過程にあるだけに、作者によって描写の味付けが異なる。考証の詳細はわからないが、やはり劇的な場面においては、槍や刀が登場する。
もっとも、吉川英治の三国志のように、英雄同士が刀で戦い「数百合を数えて」というのはかなり大袈裟だろう。ただし、その後も「剣豪小説」は成り立っても、銃だとなかなかそうはいかない。
映画の時代になって、米国の西部劇は銃を劇的に扱った。コミックでいえば「ゴルゴ13」は、銃が主役だ。
しかし、スターウォーズは剣の戦いを復活させた。もちろん銃兵器も多いが、各篇とも最後の決着はライトセーバーだ。
あれが、銃だったらどうだろうか。一瞬の決着のあとに、沈黙しか残らない。善悪の明快な西部劇ならともかく、複雑な宿命を背負ったスターウォーズには不向きだろう。
生にも死にも、必然がある。そういう主題を描いたあのシリーズにおいては、最後まで力を尽くして戦う。しかし、銃は容赦ない。
そう考えてみると、銃の持つ本質的な暴力性と、それに対する恐怖の本質がわかる気がする。
人は素手で、人の命を奪うこともできる。
ただし、銃は一瞬にして、命を消去する。まさにdeleteキーのようだ。
そうした武器が規制されるのには、相応の合理性があるはずだ。
会見でのオバマ大統領の表情は、先日の広島で見せたそれとは、まったく別人のようだった。
銃は沈黙を呼ぶ。ただし、黙っているだけでは何も変わらない。