学生などと就職について相談を受けている時に気づいたのだが、将来のキャリアを考える時には2つの発想があるようだ。
1つは「○○になりたい」という発想だ。全体としては、こちらの方が多数派だ。日本の就職は、特定の会社の「社員になること」、いわゆる「就社」が中心だ。だから「商社の社員になりたい」「トヨタに就職したい」と発想するのだろう。
もう1つは「○○をしたい」という発想だ。「人を動かすクリエイティブな仕事をしたい」とか、「人の役に立って感謝を実感したい」とか、そんな言い方をする。こうした発想の方が、キャリアや生き方の本質にかかわるように思うのだが、いわゆる「着地」が難しい。
たとえば「クリエイティブ」と言った時点で、そうとうモヤモヤしている。モヤモヤならいいが、クリエイターという存在自体をカン違いしていることもある。
だからロバート秋山の「クリエイターズ・ファイル」のようなモノが成立するわけだけど。
こういう時、学生にこんな言い方をすることがある。
「まあ、クリエイターでもコピーライターでも、自分で名刺刷って名乗るだけなら、誰にでもできるよ」
「何かをする」ためには、まず「何者か」としての足場を固めたほうがいいんじゃない?そうした問いかけだ。
いや、大切なのは「何をするか」だということはわかってる。ただ、実現のためには、まず「何になるか」を考えるのは決して間違ってないということを伝えたいのだ。もちろん「何をしたいのか」は毎日考え続けるべきだと思うけれども。
ところが、いったん「何か」になってしまった人は、ずっと「次の何か」になろうとする。肩書と名刺をめぐるおなじみの病にかかってしまうのだ。これは、順調なうちは誰も病とは思わない。会社だって、そのモチベーションを刺激することで成長を図ろうとしているんだし。
ところが、誰にとっても壁は来る。何かになろうとしても、みんながなれるわけではない。社長はもちろん、役員だって大変だし、部長になるにも運がいる。そういう時に、改めて考えることになるんだろう。
「さて、自分は何がしたいのか」
社会に出てから、毎日自問している人にとって、この思考はさほど困難ではない。しかし、次のポジションばかりを追っていた人にとっては相当厳しいかもしれない。これもまた、ミドルの危機の1つだろう。
会社員にとって、「何になるか」は結構な魔物だと思う。また、アーチストなどは無縁のように見えるかもしれないが「受賞者」になることは相当に意識されるだろう。そして、スポーツ選手にも、数々の称号がついて回る。1つの勝利には飽き足らず、より注目されるポジションを得たいと願う人も多い。
それが、人生の転機にどんな影響を及ぼしたのか。
本日公開の、日経ビジネスオンライン「キャリアのY字路」のタイトルは『キング・カズ、そして同い歳の「彼」との分岐点』というわけで、カンのいい人は思い当たるかもしれない。ぜひ、ご一読を。