スマホ中毒は、指の中毒だと思う。
(2016年5月25日)

カテゴリ:世の中いろいろ
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スマートフォンを一時使ってみたことがある。携帯電話との併用だ。結局2年ほどで止めて、ipad miniにした。携帯の方は通話とSMSだけのプランで、ipad miniは4Gだ。妻は同じく携帯とアンドロイドのタブレット。MVNOなので、固定電話とあわせてもすべての通信費は月10,000円を切るくらいだ。

しばらくは、このプランでいくだろう。

タブレットはスマートフォンに比べて大きい。そのメリットは当然あるのだけど、ipad miniだと片手では持つのが精いっぱいだ。kindleなどでページをめくるくらいはできるが、それ以上の操作は難しい。電車で立っている時など、できることは限られる。

しかも、ポケットには入らない。もう少し小さいサイズなら可能だろうが、8インチというのは、そういう大きさなのだ。

不便に感じるのは、見知らぬ土地で地図機能を使う時くらいだろうか。あと、待ち合わせの店でメッセージをやり取りするとき。飲食店のテーブルに、あのサイズのデバイスを置くのはいかんせん野暮だし。

ただ、この不便さには相当のメリットがあるわけで、それがスマホを持たない理由だ。

「片手で操作して、何となく画面を見る」

そういう「無目的な指の動き」に束縛されないで済む。

電車などでスマホを使っている人を見ると、何となく親指でスクロールしたり、タップしたりしている人が多い。目的を持ってメッセージをやり取りしたり、何かを読んでる人は意外と少ない。自分が使っていた時もそうだった。

で、あれは今にして思うと「画面を見る行為」への中毒ではないように思う。どちらかというと、「指を動かす行為」が中毒化されているんじゃないだろうか。

そもそも、人間の指にとって「ボタンを押す」ような行動は近代になってからのものだろう。「捻る」のであれば、カギのようなものが結構前からあっただろうが、「押す」だけで何かができてしまうのは、エレクトロニクスの時代になってからだ。

クルマのイグニションも、「捻る」から「押す」に変わった。

よく、小さな子供はエレベーターやバスのボタンを押したがる。自分の記憶にもあるが、「押す」という簡単な行為で、いろいろなことを指示命令できるのは気持ちいいのだと思う。ちょっとした万能感があるんじゃないか。

やがて任天堂がABXYと十字キーを開発して、みんな「押す」行為の虜になった。そしてスマートフォンになり、人の指は触ったり擦ったりという新しい行為に依存している。

スマートフォンのあの「大きさ」があまりにも絶妙だ。開発した人たちは、とにかく便利なものを作ったのだろうが、結果としては指を虜にした。

大さっぱなイメージだけど、「脳が命令している」のではなく、「指が勝手に動くのを脳が追認している」ように思う。

というわけで当面は携帯電話とタブレットで行こうと思ってる。自分の指が、ちゃんと我慢するとはとても思えないし。