一番可哀そうなのは「カップヌードル」だと思う。
(2016年4月9日)

カテゴリ:マーケティング

カップヌードルのCMがオンエア中止になった。CMそのものにも、またオンエア中止ということにも、いろんな問題が複雑に絡んでいるように思う。

箇条書き的に雑感を

  •  あのCMを見た時は「よくやるなぁ」と思ったけれど、「すごいな」という感じではなかった。王道感はうすく、いかにも「搦め手」からのアプローチだなあと思う。「お騒がせ」の人々をあのように起用すれば、たしかに話題にはなる。
  • カップヌードルは日清食品の看板ブランドだし、広告の歴史にも華がある。今回に限らないけれど、堂々としていればいいようにも思うのだけど、そうもいかない事情があるのだろうか。ただ、日清食品は広告を上手に使いこなす企業だと感じていた。
  • それだけにクレームで止めてしまうのは、いろんな意味で残念、というよりまずいと思う。気に入らない広告に対して、文句をつければ止められるというのが普通にできるのか?という理解が広まる可能性がある。
  • 広告もまた一つの言論活動であり表現だ。べつに法律論を出すことはないだろうが、一度出したものには責任を持ってほしいし、クレームで引っ込めるくらいなら最初からやらなければいいだろう。
  • 「誰かを不愉快にさせたら撤退」というルールを自社のCMに適用することで、広く表現物への規制に広がって行く可能性もある。広告主が「炎上させたくない」理由ですぐにオンエア中止をすることの影響力を自覚しているんだろうか。
  • これが出版物の回収であれば、「表現の自由」との関係で別の騒ぎになったと思う。「CMだからクレーム中止はしょうがない」という風潮がきっかけになって、広く表現全体に波及していくだろし、既にそうした兆候はあるのではないだろうか。
  • そうした問題とは別に、このCMを見て感じるのは「カップヌードル」というブランドの不在である。「父のいない家庭」で家族や他人がはしゃいでいるような違和感があって、これは今回のCMに限ったことではない。
  • そういう意味で、今回の騒動で感じるは「カップヌードルが可哀そうだ」という一言に尽きる。商品になんら罪はないのに、こうした情報戦略によって翻弄され傷ついてしまうのは、ちょっといたたまれない。
  • というのも、カップヌードルは技術的優位性も含めて本当によくできた製品で多くの人に愛されてきた。広く競合商品も増えて、いまの若年層にとっての存在感は薄いかもしれないが、日本が開発したオリジナリティの高い商品だと思う。
  • この広告のメッセージを伝えたいなら、「日清食品」のクレジットで企業広告にしてもよかったと思う。そういう意味でカップヌードルを「巻き込んで」しまったことが、擬人的な表現になるけれど「可哀そう」なのだ。
  • 今回明らかになったことは、日清食品が「企業ブランド」と「商品ブランド」のそれぞれにおいて、マネジメントが揺らいでいるということではないか。そう考えると、ブランド戦略を抜本的に見直すいい機会ということになるのかもしれない。