今日は天気が良かったので、近所を歩きながら花吹雪を眺めた。自宅の部屋から街を眺めると、あちらこちらに桜が見られる。公園もあるが、立派な桜のある個人邸も結構多い。昭和の風情が残る住宅地ならではの光景だ。
大きな公園の桜よりも、こうした一本桜を眺めながら街を歩くのが、毎年の習わしになっている。
それにしても、最近は桜の開花を心待ちにして、それを喜ぶ空気は近年に一段と強くなってきたと思う。
もちろん、計量できるものではない。全体的に高齢化が進むとそういう感じになるのかもしれないが、スマホのカメラを向けている若い人もたくさんいる。
たしか1990年代後半に東京ウォーカーが桜や紅葉の特集をやり始めた。映画や演劇など「人工的なエンタテインメント」を網羅した“ぴあ”から、流れが変わったなぁという話を会社の同僚と話したことを覚えている。
それにしても、なぜ桜に惹かれるんだろうか。
もちろん、花の美しさはある。ただ、それ以上に何か心を動かす不思議な力があって、それは他の花にはないように感じる。
よく散り際が美しく、それが無常観や死のイメージを喚起させるという話も聞く。ただし、それは西行の歌や梶井基次郎の影響かもしれない。
僕は満開の桜を眺めていると、なんか「いろいろなことが赦される」ような感覚になる。氷が溶けて、水も温んで、風も爽やかな春の日に、花が咲く。眺めているだけで、ふと俗事を忘れる。じゃあ、原稿が遅れた時の言い訳にこんなのはどうだろう。
「すいません。桜があまりに美しくて」
実際に口に出したら通用しないかもしれないが、気持ちは何となくわかる。他人といがみ合ったり、1人でクヨクヨしたり、特に理由もなく不安だったりしても、桜を見ている時は、別の世界にいるんじゃないか。
桜さが咲くと、SNSのタイムラインは花の写真でいっぱいになる。でも、どんなに上手に撮ってあっても、樹の下で眺めるのとは何かが違う。自分でも撮っておいて言うのも妙だが、桜は記録しても仕方ないようにすら思う。
そういえば、高3になる春に祖母が旅立ち、自宅で弔いをした。庭の中央には枝垂桜があって子どもの頃は楽しみだったが、その頃は殆ど花をつけなくなっていた。ところが、その年は久しぶりにきれいに咲いた。
それも、また何かが赦されるような感覚だったのかもしれない。
外国人、特に中国人の間では桜を見に来ることがブームになっている。同じ桜を見て、何を感じているのだろうか。急成長の陰で、いろいろと忘れたい俗事もあるだろうし、それをリセットする感覚は国を超えて似ているのかもしれない。
明日は雨だという。次の週末は、また今までの東京、つまり世界有数の世俗都市にもどるのだろう。
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