ふと、テレビを見ていたら教育に関する話などの流れで、「人の痛みがわかる人になれ」というのが出てくることがある。
これが、どうも気になる。自分が子供の頃から、大人たちはそう言ってた。しかし、その頃から僕は疑っている。本当にそれでいいんだろうか?
思いやりを持て、というのならわかる。優しくしなさい、でもいい。
ただ、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、言っている方の自己満足だと思っていた。
自分自身では「他者の痛み」というのは、そうそうわかるものではないだろう、という懐疑もある。
他人を殴った子どもに「あいつの痛みがわかるか!?」と叱っても、「わからないから殴る」わけで、どこか言葉に酔っているように感じる。
心理的な痛みとなると、もう相当にわからない。辛い人に「わかるよ」とか迂闊に言ったら、失礼になるのではないかと思い、よほど経験が類似したいない限り口にはできない。
悩んでいる人の話を聞くことは、仕事もであるし、私的にもある。そういう時に「痛み」そのものがわかることよりも、「どうして痛みを感じるのか」という因果関係を知るようにしている。
もしかすると「痛みがわかる」ことは不可能でも、「痛みに至る構造を理解する」ことは可能だし、それは他者のためになることもあるだろう。
なんで、そんなことが気になったかというと、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、日本の教育に今でもはびこる半端な精神論の象徴のように思うからだ。
もっとひどくなると、「あいつは苦労してないから、人の痛みがわからない」という、的外れの批判をする人もいる。苦労したことで人の気持ちを察する人もいれば、苦労して猜疑心の塊になった人もいる。
苦労してないことで、屈託がなく魅力的な人も多いだろう。
3月は、日本では節目の月で、悲喜こもごもの時期でもある。新生活が希望の光に溢れている人もいれば、雲の中へ歩み出すような人もいる。
桜の見え方も、きっと人それぞれなんだろうな、と思いながら桜を見る。それもまた、「人の痛みを想像する」ことからもしれない。ああ、そういうことならわかる。「自分が美しいと感じている時、他者も同じように感じているのか?」
そういう問いかけを促すのなら、まだ理解はできる。
これは、「他我」という相当にややこしい問題の1つでもある。「哲学・航海日誌」の一章は、この考察に充てられているが、なかなかに難しい。
桜の開花する連休に、いろいろ考えるには、ちょうどいいかもしれないけれど。