マンションの広告のポエム化している、というのは結構前から話題になっているが、揶揄したような記事や、エリアごとの分析はあっても「なぜポエム化するか」というそもそもの話にはあまりなってないようだ。
先日、とある広告制作者とこの話をしていたら、結構広告表現の本質に迫って、やがて哲学的な話になってなかなか面白かった。
結論からいうと、マンションや住宅の選択基準は、「スペックまみれ」になっているので広告表現はポエム化するしかない、ということではないだろうか。
家を購入する過程は、家族の人数や年齢、予算、立地など様々な条件をクリアしていく過程でもある。そもそも広告見て「じゃ、買ってみっか」とはそうそうならない。
一方で、広告コピーとは「価値の提示」と「意味の付与」が最大の役割だ。この場合、商品選択の際に「スペックでガチガチ」になってしまったら、広告クリエイティブの余地がない。
だから、スペックだけが選択理由にならないような商品は、広告が活躍しやすい。
たとえば「ポカリスエット 広告」でグーグルの画像検索をしてみる。ビートたけしがいて、ダルビッシュがいる。そして、いまの広告は母と娘だ。昨年は、女子高生を主役にした「潜在能力をひき出せ」が話題になったが「汗は体くれたサインだ」という時もあった。ポカリスエットの成分は同じだが、広告が価値を提示している。
その製品の位置づけを、つまりブランドポジショニングを明示しているから、「ポエム」にはならない。
「いつかはクラウン」というコピーがあった。人生におけるクルマ選びの終着点ということを上手に表現している。この時代は、クルマ選びも今ほどスペックまみれにはなっていなかったのだろう。エンジンやシャシーとかを超えて、上手に意味を付与したのだ。
最近だと、ダイハツ・タントの広告も新たな価値を提示した例だろう。「家族のための軽自動車」と言葉で書くのは簡単だが、実はそういうコンセプトのクルマは少なかった。「知ってる言葉を組み替えて新たな価値にする」というのがコピーの役割なのだ。
これは、「言葉の分節化」という行為で、論理空間を持つ人間特有のものだ。だから「猫は後悔しない」という話になっていく。
一方マンションはスペックの塊で、そもそも新たなコンセプトを提示しにくい。「家族の潜在能力を引き出す」と書いたらどうなるか。新しいけど売るのは相当難しいだろう。
そして、マンションの間取りや機能は相当似て来て、差別化ポイントは立地だ。切り口としてのコピーは不要になって、何か書かなきゃとなればポエム化し、その多くは地名に絡む。
さらにマンション広告は殆どがグラフィックで、デザインも限定されるし、表現の余地はすべて言葉に託される。音楽の代わりのようなものだと思えば、歌詞つまりポエムになるのも頷ける。
これはマンションに限らずネット広告時代の宿命でもある。いろんな条件を検索してモノを選ぶ過程にも広告はある。しかし、そこで表現の介在する余地は少ないし、コピーで心を動かすのは難しい。条件が優先されるからだ。
ただし、まだまだ「価値提示と意味の付与」のための方法論はあると思っている。その辺りについては、また日を改めて。