街を語る文化人の落とし穴。
(2016年2月28日)

カテゴリ:世の中いろいろ,読んでみた

街を語るのは難しい。というのも、本人の経験が限定的だからだ。

現住所は基本的に1つだし、勤務先やら留学先とかをかき集めても限度がある。だから、街を語る文化人はフィールドワークをするわけだが、これもまた時間がかかる。

そして、どうなるかと言えば、知識勝負になる。だから、現代日本の話に古代ローマや中世の京都とか持ち出してくるわけで、聞いてる方としてはもうどうでもいい感じになっていく。

しかも、その街の当事者が語るとは限らない。まあ、語るだけなら誰が語ってもいいんだろうけど、他所の人が「これを壊すなんて」と言ってきて面倒になることもある。

そうした理屈と関係なく、好きな空間を語り倒すとなると、結構思いもよらない発見がある。昨日書評を書いた「ショッピングモールから考える」にはそうした楽しさがあった。

ただ、僕自身の感覚としては、それほどピンと来るわけではない。もともと、東京区部の西で生まれ育って、高校までは区内だった。転勤後に結婚したが、東京に長い割には知ってる場所が少ない。結局は似たような場所にずっと住んでいる。

30年以上通っている小さな店には、顔なじみの高校の先輩がいる。新しい店も増えたが、そこにも常連がいて濃い空間をつくっている。

それが当たり前の世界なのだけど、だからといってモールを批判する人の気持ちもよくわからない。僕の住んでいる昔ながらの住宅街と、駅から連なる店は相当に閉鎖的でもある。ことに酒を飲まない人にとっては居場所が相当限られる。夜にメシだけを食って帰ろうとすると選択肢が少ない。コンビニが流行るのも納得できる。

モールに代表される再開発エリアの方が、よほど選択肢が広い。それを「猥雑さや陰影がない」などと評するのは簡単だが、そもそも街にそういうものを求めるかどうかは、個人の好き好きだろうし、生まれ育った経験にもよる。

理屈に頼った都市論を多くの人が論じてきたが、いま振り返ればその殆どは「好みの正当化」だったと思う。だから、歴史などの理屈を持ち出す。

そういう世界では、普通の声は聞こえにくい。いまでも、赤羽や立石に行った人はSNSに喜んで写真を載せる。でも、モールの写真を見ることは少ない。小さな子どものいる家族に聞くとよく行ってるようだが、それはあくまでも日常だ。

それは知識人にはわかりにくいのだろう。そして、ヤンキーはディズニーが好き、ということを論じたりする。ただ僕はTDRは好きなので、読んでいても「ああ、そう分析するんですか」という感じになる。

そう考えると、モールに行ってる人が、それを批判する知識人の言ってることを読んでも、同じ感じになるだろう。

心地いいからここに来ているわけで、余計なお世話だ。それに、小難しくてよくわからないし。

そういう妙な重さがないあたりが、この本の面白さなのだろう。街は面白いが語りすぎてはいけない。実はタモリがそのあたりのさじ加減を教えてくれているんだけどね。