コメンテーターが並んでアレコレ言うようなテレビを見ることは少ないのだが、ネットを見ていて入ってくるテレビの話は、そのような類の番組からの話題が多い。
短時間で気の利いたことを言おうとするコメンテーターの発言は、どうしてもネタになりやすく、ちょっとした弾みに炎上しやすいんだろう。
それにしても、最近目に付くのは古市憲寿氏の話だ。「ハーフは劣化が早い」とか、「手書きの手紙で仕事依頼する人は~」みたいなのを見ていると、テレビ局のために身を挺して話題を提供しているのだろうか、と思ってしまう。(もっとも手書きの仕事依頼は僕も引くと思うし、これが若い会社員のつぶやきならあると思うけど)
「大して中身がなくても、一定の人に反感を買う」発言こそが炎上技の要だ。それは、プロレスにおけるヒールの役作りとも同じこと。
しかし、著作を読むとそれなりに面白いところもあるし、一定の教養がありそうな人が、どうしてこうまでしてテレビに出ては、自分に放火しているのか。その辺のことは本当に不思議だ。
もっとも、テレビのコメンテーターたちの役目は、「盆踊り」のようなものだと思う。みんなで、一定のリズムで踊りながら、適度に茶々を入れる。あまり単調だとつまらないから、ちょっとボケ役もいる。東京音頭が鳴ってるのに、炭坑節を踊って突っ込まれるような感じだろうか。
彼の場合、それじゃ飽き足らないのでダンスを踊って見せているのかもしれない。もちろん、テレビという枠組みの中ではそういう役目も必要だ。
でも、それは目の覚めるようなダンスではなくて、「下手な盆踊り」になっているんじゃないか。その辺が、ちょっと痛々しい。もう、批判されてもいい。目立つことで自分の存在を残しておきたい。それは、芸人としては十分に「あり」だと思う。ただし、「社会学者」としてはどうなんだろう。
そもそも社会学というのは、守備範囲が相当に広い。経済学者だったら「景気はどうなるか」「アベノミクスの是非は」という問いに対して、何らかの科学的根拠を持って答えられなくてはならないだろう。ただし、「社会」のことなら何でも語ってもいいと勘違いしている社会学者もたまにいる。たしかに守備範囲は広いだろうが、テニスをやるならともかく、1人でサッカーをやっているような人もいるので、当然エラーも目立つわけだ。
もちろん真っ当な社会学の研究も多くある一方で、この学問の微妙な立場を感じてしまうことも多い。
そこで、ふと思い出すのはトレヴェニアンの「シブミ」という小説だ。主人公はバスクに住む孤高の殺し屋で、日本の「シブミ」を体得した男。というだけで、相当な設定だが、そこにやってくる米国人女性に大学時代の専攻を尋ねるシーンがある。「社会学」と答えた後に、この小説の地の文は以下のように書く。
『社会学、不明確さを統計的霧で擬装し、心理学と人類学の間の情報不足の狭い隙間を食い物にしている疑似記述科学。青年期を引き延ばすための四年間の知的休暇を正当化するための多くのアメリカ人が利用している実体のない専攻科目だ』
ウ~ム。最初読んだ時には、ひどいこと書くなと思ったが、いま読み返すと何となくわかる気がするのはどうしてなんだろうか?
ちなみに、この「シブミ」だが一部でマニアックな人気を誇りつつも絶版になっていたのだが、近年復活してkindleでも読める。こんな小説があったのかと、驚くと思うよ。
【追記】テレビでの発言は「炎上芸」としてスルーしたとしても、こちらで発言していた内容はさすがにひどいなと思ったことがある。
(以下引用)>>「なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日本型の福祉の1つだと思います。(中略)一方、日本は北欧型の福祉社会で はないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日本では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる。」>>
すき家の労働環境が問題になる以前とはいえ、これが社会学の見識だとすればトレヴェニアンの書いたとおりかもしれない。