【今年気になること】「日本人」って何だろう?
(2016年1月6日)

カテゴリ:世の中いろいろ

それほど難しいことを書くつもりではないんだけれど、昨年のラグビーワールドカップで考えたのは「日本人」という意識もだんだん変わるんだろうな、ということだった。ラグビーの場合は、長いこと見てなかった人がいきなり南アフリカ戦が盛り上がったので、覗いたら「エ~そんなに外国人多いの?」となった感じだ。ずっと見ていれば別に驚くことではない。

どの国もそういうルールなのだ。

でも、「なんかモヤモヤする」という人も多かったとは思う。ただし、自分の周囲では少なかった。それは「日本人か外国人か」というような発想で考えている場合ではない、というくらい仕事の環境が変化しているからだと思う。で、そういう環境に身を置いている人にとっては、どこの国の人間かというより「どういうチームで働いて目的を達成するか」が遥かに重要だからだ。

逆に考えると「まわりが日本人だらけ」の環境の人にとって、外国人はいつまでたっても“ガイジン”なのだろうし、そういう人にとってモヤモヤ感はずっと続くかもしれない。

僕はふと思ったんだけど、「カタカナ」というのは、結構その辺りの心理に作用するんじゃないだろうか。日本語では表音文字が2種類あって、カタカナは外来語表記に使われるようになった。そうなると、漢字圏以外の外国人の姓名はカタカナ表記なので「代表一覧」とか見れば、一目でわかってしまう。

ラグビー出場国の多くはアルファベット表記で、もちろん綴りによって民族の系譜などはわかるかもしれないが、日本のようにハッキリとは見えないだろう。

そして、スポーツ界では、日本人と外国出身者の間に生まれた、いわゆる「ハーフ」の選手が活躍する傾向が強まってる。

代表がメジャーリーガーのダルビッシュだろうが、昨夏の甲子園で話題を呼び、今年からプロになったオコエ瑠偉もそうだ。オコエの活躍を描いたとあるスポーツ紙の記事が「甲子園がサバンナ」的なあまりにも紋切型の描写で話題になったが、記者を咎めても仕方がないかもしれない。学者が「ハーフは劣化が」とか言っちゃうレベルの国の新聞なんだからそんなものだろう。

そして、今年のリオ五輪では「カタカナ名前」の日本代表が活躍するかもしれない。いろんな意味で「日本人とは?」と自問することが多くなる気がする。

為替などの状況で変動はあるにせよ、訪日客は相変わらず増加基調だ。一方で、欧州の難民を巡る問題は一筋縄ではいかない。昨年大みそかにケルンで起きた事件などの展開によっては世論もまた変わるだろう。

いずれにせよ、異国文化との直接的な接触機会は増加する。

そういう中で「○○人」という概念でモノを考えることに限界が来るように感じる。ラグビー的に考えれば、「どこで生まれたか」とか「誰の血を引いてるか」よりも、「どんな教育を受けたか」「どんな文化を共有してるか」が大切になってくる。

ラグビーが素晴らしかったのは、実力ある外国人が「日本代表になりたい」と思ったことではないか。「外国人選手が参加したから強かった」のではなく、「優秀な選手が世界から来たくなる」チームを作ったから成果を出せたのだ。それはどんな組織にとっても同じだろう。そういう発想は日本企業にとってもチャンスになると思う。

とある民放の出演者が「姓に漢字があればまだ日本人だという感じがする」みたいなことを言っていたが、そういう発言も今後どう思われるのか。

あらためて「日本人」という当たり前の単語を考え直すことになるんじゃないかな。