[読んだ本] アルトゥール・ショーペンハウアー著) 鈴木芳子(訳) 『読書について』 光文社古典新訳文庫
読むこと自体はそうそう難しくないけれど、どう感じるかとなると、なかなかに手強いのがこの一冊。
『読書について』は、ショーペンハウアーの『余録と補遺』から訳出された三篇からなっているが、書物と人間の知性をめぐる鋭い問いかけが読み継がれている理由だろう。
『読書は自分で考えることの代わりにしかならない。自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ』(p.11)
まあ、過去の本を読むより自分の頭で考えろという話なんだけれど、これはまた都合よく解釈されやすい。「オリジナルだけに意味がある」と創作に燃えて、過去の作品を勉強することを嫌がるアーチスト志望の人などには有難いようだが、うかつに信じれば、そこには大きな落とし穴がありそうだ。
ふと思い出すのは、中学校の時に「大切なのは未来なんだから歴史のような過去のことを学ぶのは意味がない」と言っていた同期生がいたことだった。単なる勉強嫌いならともかく、相当成績がよかったので、まあ典型的な中二病だったのだろう。
ちょっと考えればわかることだが、「読書をする」ということが、「自分の頭で考える」ことを邪魔するわけではない。知識が、そのまま創造力を妨げるわけではない。
歴史に学ばない人が、失敗を繰り返していることを見ても明らかだ。
しかし、ショーペンハウアーの言葉がどこか僕たちの「痛いところ」を突いているからこそ、読み継がれているのだと思う。
それは、この時代がある種の「情報爆発」が起きていたことと関係があると思っている。
この本が発表されたのは1851年だ。ちなみに、その直前の1848年は西洋史における節目とも言われている。「共産党宣言」が発表されて、フランスの2月革命がドイツの3月革命など欧州に波及。米国ではゴールドラッシュが起きている。ペリー来航の5年前だ。
市民社会の勃興は、多様な言論を生み出して印刷技術も発達した。だから、こんなことも書かれている。
『へぼ作家の大部分は、その日に印刷されたもの以外読もうとしないおめでたい読者のおかげで生計を立てている。すなわちジャーナリストだ。実に適切なネーミングだ。ジャーナル[日々]の糧を稼ぐ人、わかりやすくいえば「日給取り」だろうか。』(P.34)
小説にしても、後世にまで残る価値があると思えないものが溢れていくプロセスに対しての憤りがある。その一方で、「自分で考えない」学者を厳しく批判している。
『こうした大衆文学の読者ほど、あわれな運命をたどる者はいない』(p.144)の一方で、『他人の考えがぎっしり詰め込まれた精神は、明晰な洞察力をことごとく失い、いまにも全面崩壊しそうだ』(p.14)と述べ、『この状態は、多くの学者に見受けられる』と続ける。
じゃあ、いまはどうなんだろうか。情報の波の翻弄される人が増えていく一方で、知的リーダーであるべき学者が知識を切り売りして、ジャーナリズムは日々ネタの切り貼りに励んでいるわけで、それが多くの人をドキリとさせる理由だろう。
とはいえ、この本に書かれていることをそのまま受け売りして「読書ってさぁ~」と語った途端に、その人はショーペンハウアーの罠に嵌ったことになる。だって、その瞬間にもう「他人の頭で考える」ことになっているのだから。
そういう意味で、いろいろなトラップが仕掛けられた一筋縄でいかない、だからこそ魅力のある一冊だと思う。
なお、訳は幾つかあって岩波文庫が定番だと思うが、光文社の新訳はよくこなれているし、kindleは良心的な価格設定をしているのでお勧めできる。