東京・春・音楽祭 東京オペラの森2010
4月9日 19時 東京文化会館大ホール
■出演
指揮:リッカルド・ムーティ
ソプラノ:デジレ・ランカトーレ/カウンター・テナー:マックス・エマヌエル・ツェンチッチ/バリトン:リュドヴィク・テジエ
管弦楽:東京春祭特別オーケストラ
合唱:東京オペラシンガーズ/児童合唱:東京少年少女合唱隊/合唱指揮:ロベルト・ガッビアーニ
■曲目
モーツァルト:交響曲第35番 二長調 K.385 《ハフナー》
オルフ:世俗カンタータ《カルミナ・ブラーナ》(字幕付)
カルミナ・ブラーナを生で、しかもトップクラスの指揮者で聴ける機会は滅多にない。というわけで、チケットを買うことは躊躇なく決定。1F右サイドだったが、東京文化の1Fは正面よりもこちらの方が好きなのだ。ここに空席があった。
ハフナーは2005年にムーティがウィーン・フィルと来日した時に聴いた。D-durで弦がよく鳴る。この日もメヌエットの頃からオケが温まってきて、フィナーレの頃にはいい響きになってきた。
東京文化で、このサイズのオケはちょっと響きが細く聴こえるのだけれど、カルミナ・ブラーナについては、このホールの美点が十分に発揮されるだろうな、と改めて思う。オケはティンパニーが期待できそう。全体的には日本のオケの標準よりは安定している感じ。
ムーティは、「立派な」指揮ぶりで、モーツアルトだと時に違和感を感じる人もいるかもしれない。
さて、休憩を挟んで「カルミナ・ブラーナ」いや、素晴らしかった。この曲、生で聴くのは初めてだったんだけれど、実はクラシック好きでなくても第1曲を聴くと「ああ、これか」と思う人も多いだろう。映画の予告編や、スポーツの特番などでよく使われる。
映画だと「地球最後の日」や大規模テロなどのカタストロフィーもの。スポーツ特番だと「ワールドカップへ最終決戦!」みたいな時だな。
つまり「大げさな音楽」、これぞクラシックな曲なのである。
その大げさ感が、東京文化のドライな響きをガンガン響かせる。これがサントリーだったら、もっと「満たされた」感じになって、この曲のおどろおどろしさが感じにくいかもしれない。
聴いていて改めて気づくことも多かった。前半の春の音楽や酒場の曲はマーラーの「大地の歌」を連想させる。中世ヨーロッパと東洋。求めるテキストは異なるが、近代西洋の啓蒙主義の文脈からはこういう音楽は生まれてこないだろう。そして幻想的な、というかある意味即物的な愛のお話から、冒頭の「運命の女神よ」が帰ってくる。
この解釈はいろいろあるんだろうけど、いわゆる「夢オチ」な感覚だった。人の想いの、すべては、幻。すべてを握るのは運命の女神。構成としてはとてもよくわかる。
それにしてもムーティは、元気だった。跳ねていた。それが、ともて自然だ。2005年もファリャの時に跳ねていたけど。
僕は、歳とともにテンポがだれているだけの指揮者を「枯れた」といって尊ぶ風潮が嫌いなので、ムーティにはこのままガンガン行ってほしい。シカゴ響との共演を聴いてみたい。
ソリストはバリトンが表現力も豊かで安定していた。ソプラノは美声だけれど、ラストの方で苦しそうなところも。カウンターテナーは伸びに欠けたように思う。
コーラスは、初めて生で聴くのでよく分からないのだけれど、パワーはあるけどハーモニーのふくよかさに欠ける気がした。うまいコーラスって、天から降ってくるように聴こえるのだけど、昨日のはとにかく前から聴こえた。
オーケストラは、ブラスセクションなどはいい水準だと思うけれど、弱音時の木管の音程やアインザッツが乱れることも多くて特に驚いた、というような感じはない
そういえば2曲目に「運命の女神の後頭部は禿げている」というような歌詞があって「アッ」と思ったけど「運命の女神に後ろ髪はない」って時々聞く。この言葉のルーツ、調べても「イタリアの諺」とかたしかなことは分からなかったのだけれど。
いろいろ書いてみたけど、結局、ムーティに尽きるということなのかなあ。