最近はあまり聞かないな、と思っていた言葉に「生きにくい」とか「生きづらい」というのがあったけど、少し前にとある女優のインタビューで見た。
上野樹里なんだけど、「日本は生きづらい」という見出しで読んでみると、別に日本社会の問題を指摘してるわけではない。自分が有名になり過ぎていろいろ神経を使ったというだけの話だった。彼女は海外で映画出演しているので、そのように思ったんだろう。
で、これが一部でいろいろ言われているそうだけど、まあそのことじゃなくて、この「生きにくい」「生きづらい」ってどうして言われるようになったんだろうか。
感覚的には、いわゆる「格差」が広まったといわれるここ10年くらいではないかと思う。ただし、こればかりは個人差もある。性格や環境も影響するので、「2000年代初頭の日本」の問題なのか、あるいはそもそも人が生きていく上で付きまとうことなのか?ということが気になるのだ。
とりあえず、ここ最近の日本で起きていることだとすればなせだろうか?たとえば若年層が未来に希望が見出しにくいとか言うこともあるだろう。また、何か言葉を発するとすぐに叩かれて「空気読め」と言われるような「一億総姑社会」のようなことも背景にあるかもしれない。
一方で、自分自身を考えると「生きるのは大変だ」と思ったことはあっても、それは自分の問題だから自分でどうしようか?と考えてきた。生きづらい「社会」がそこにあるのではない。うまく生きていけない自分がいる、という認識だった。
人によっておかれた環境はさまざまなので、「生きづらい」と感じるのはまあそうなのかな?と思うけど、実はこの言葉には「自己成就予言」のような側面があるように思う。つまり、みんなで「生きにくい」「生きづらい」と言っているうちに、本当に世の中がそうなってしまうという現象である。
いまが「生きづらい」というけれど、ライフコースは多様化している。かつて一定年齢までに結婚しないとアレコレ言われた時代だって十分に生きづらかっただろうし、生きやすい時代なんてそもそもあるのかな?
問題は、自分を顧みないで周囲のせい、社会の問題に帰着させる感じがこの言葉に漂っているということだ。「生きにくい“時代”」と言った瞬間に、人間の本質から外れて安っぽい社会評論もどきの話になってしまいやすい。そういった意味で、安易にこの表現を広めたメディアが、実態以上に生きにくい社会を仮想的に出現させた面もあると思う。
一方で、人間という存在が生きていくには大変な精神的労苦があるんじゃないか?という視点は普遍的な哲学のテーマだ。
あえて「生きにくい」という言葉をタイトルにして、正面から向き合い説得力溢れる論を展開しているのは、僧侶の南直哉氏が書かれた「なぜこんなに生きにくいのか」という一冊。「生きる」ことを正面からわかりやすく論じた上で書かれる「生きにくさ」には深さがある。この本はキャリア論の視点から見ても、明快で理に適っている。宗教と哲学、そして実生活の架け橋になってくれる本だ。