紀里谷和明氏のインタビューが気になった。
公開された映画「ラスト・ナイツ」のプロモーションということもあってか、メディア露出が増えているが、このインタビューで語っている「働くこと」への思いには、強いインパクトを感じる。
SNSでもシェアしている人が目立ったけど、なんかハッとさせられたような気になった人も多かったのだろう。
紀里谷氏の仕事についてのスタンスは、ある意味「モーレツ」だ。たとえばこんな感じ(『』内は先の記事より引用。以下同)
『 “失われた20年”なんて言うけど、単純に人が仕事しなくなっちゃったんだと思う。特に若い人たちは、熱をもって突っ込んでいかないし、熱を もって泥まみれになりながらでも血ヘド吐きながらでも何かをするっていう姿勢がないと思う。』
まあ、これだけだと「今の若い者」論に見えるんだけど、彼の真骨頂はこの後にある。
『いま、誰かのせい、社会のせいって、何かしら外的要因のせいにしてる人が多すぎる。それで遂には、(中略)一生懸命がんばってる人を笑い、攻撃するヤツまで出てきた。』
と社会全体の空気について語った後、その矛先はネット空間にも向いていく。
『そう。なんにもせずに人のせい・社会のせいにするようなヤツらが、ウイルスのような毒素をばらまきまくってるわけです。炎上させたり、“リア充”って言葉で人を笑ったり。で、それに対して今度は“がんばってる人たち”側が気を遣ってしまってますよ。』
この状態を、紀里谷氏は「内戦」と表現していた。
僕の労働観は紀里谷氏のそれよりは相当緩いと思うので、「そうだ!」というほど同調はできないのだけれど、ここに引用した辺りの感覚はよくわかる。日本人の社員のやる気が世界でも最低というのはこちらの調査にもある。
これは能力というより動機づけ(モチベーション)の問題だろう。
紀里谷氏のインタビューを読んで思うのは、彼の「切迫性」の強さだ。これはキャリア論の世界では、重要な動機づけの1つだが、わかりやすくいえば「前のめり」だ。
この切迫性は、ある種の強烈な作品を残す芸術家にも感じることができる。太宰治の小説、ゴッホやムンク、あるいはベートーヴェンの音楽など、「どうしちゃったんだ」というくらい前のめりな時がある。ゲーテの「ウェルテル」もそうかな。
切迫性の強い人は前のめりに働くし、そうでないとかえって不安になる。ただし世の中には、そうでない人もいて、彼らにとって切迫性の強い人はつき合いにくい。上司がそうだったりすると、結構追い込まれてしまうパターンもある。
ベートーヴェンの「運命」は彼の切迫性が前面に出た代表的な曲だと思うが、ちょっと昼休みに聴こうという気にはならない。切迫性の強い人から発せられるパワーは、時と相手を選ぶのだ。
一方で優れたリーダーの多くは切迫性が強く前のめりだ。そういう人を「苦手」というのは人それぞれだが、遠巻きにしながらバカにするというのが紀里谷氏のいうウィルスの正体だろう。
そしてさらに問題なのは、遠巻きにして『人のせい・社会のせい』にしている人が自分は被害者であるかのように語り、それを「弱者」のように取り上げる空気がまたどこかに存在していることなのではないか。
紀里谷氏の言葉は荒っぽいところもあるが、だからこそハッとさせられることも多い。久しぶりに、鋭い刃を突き付けられたような感じがした。