橋下徹氏の現在の最大の功績は「文化人の能力」を明らかにしていることだと思う。テレビでの論争もそうなんだけど、その後にこういうダメな文章を残してしまうことで、ますます文化人の底を明らかにしていく。
これはある種の「ろ過プロセス」のようなものだ。ただ、そうやってダメな文化人がとかされた後に、澄んだスープになるのか、実はただの水でした、ということになるのかはわからないんだけど。
「反橋下」という人々が出てくるのは、それはそれで必然だと思うんだけど、じゃあなぜダメなのか。それは、正面から「意見」を言っていないからだと思う。
大雑把にいって「政策がよくない」のか「方法がよくないのか」という二つの切り口があると思うんだけれど、正面から政策の問題に切り込んでいないように見えるのだ。「都構想」や教育委員会の問題だってあるのに、すぐに「方法論」に逃げている。
そして「独裁的」だとかいう言葉になる。そうなのだ。選挙で勝ったということは民主的手続きで政策が支持されたのだから、どうしても文句が言いにくい。そこで手法にケチをつけるしかないのだろう。
しかし、それは実は多くの人々(有権者)の感情を逆なでしていることに気づいていない。そもそも日本人は「自分たちの多数意志」が政治に反映されないことにイラついてきた。かつての中選挙区制では政権が選べず、とりあえず政権を選んでも参院の半端な制度のせいで、前に進まない。
そのフラストレーションが、もっともわかりやすい首長選に向かっている。
つまり「自分たちで選んだ」という人が多数派なのに、「独裁的」「少数派切り捨て」という、「戦後民主主義文学」による批判は多くの人に嫌悪されるだけではないか。
民主主義は、多数が独裁するシステムだ。しかし、それを変えることもまた可能であり、それは有権者の仕事だ。半端な文化人への反発は、彼らがその大事な仕事にケチをつけて「自分たちの意見を聞け」と言っていることにある。だが彼らはそれに気が付かない。
何だか霞ヶ関より前に「文化人村」が解体されていくような気がしている。
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